鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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聖なる山に聖地や聖道を再現,接続することから生まれた,芸術的,宗教的,キリスト教的,そしてとりわけ神秘主義的(正確には「苦行的J)な総合施設と定義することができょう。その具体的な特徴は,一般に(全てが以下の特徴を有するわけではない),高所の限定された野外空間や山の斜面上に,礼拝堂,教会堂,修道院,ニッチなどの宗教建築を擁していること,そして特に複数の礼拝堂内に,聖書に取材したキリストや諸聖人の生涯の場面を,きわめて表現力に富む絵画と等身大の彫塑像によって啓示的,演劇的に提示することで,巡礼者の場面への物理的,心理的参加を促している点にある。このような性格と特徴をもっサクロ・モンテは,まずイタリアで実現され,次いでイタリアのみならず,スペインやポルトガル,ラテン・アメリカ,フランス,ドイツ,スイス,オーストリア,ポーランド,チェコスロヴァキアでも類例を見ることになり,その伝統は今世紀のアメリカ合衆国における建設例にまで及んだ(注5)。(本報告書ではイタリアのみを扱った)。外観上は互いによく似ているとはいえ,建設事情がそれぞれ異なるイタリアのサクロ・モンテ群は,その性格や特徴,時代に従って,主に三期に分けて考察することができる。一期は,「ヌオーヴァ・ジェルザレンメjの性格に代表される時期,第二期はトレント公会議後の対抗宗教改革期,そして最後は,ヴイア・クルーチス信仰の流布期である。以下,この大きな時代区分に従って,イタリアにおけるサクロ・モンテの歴史を辿ってみよう。1.ヌオーヴァ・ジェルザレンメの誕生終始巡礼の実践によって貰かれている中世のキリスト教徒にとって,巡礼は,生活の象徴的な瞬間を意味していた。当時,聖地はスペインのサンテイアゴ・デ・コンポステラ,イタリアのローマ,そしてパレスチナのエルサレムであったが,これら三大聖地のうち,神の存在の物理的痕跡と史跡,またキリストの歴史的実在性の故に,キリスト教徒にとってとりわけ重要であった(ある意味では現在も)のはエルサレムであった。このパレスチナの聖地への巡礼の実践の伝統は古く,四世紀前半にコンスタンティヌス大帝によって町の宗教的設備が再建された直後に遡るが,とりわけ10世紀末以降は,巡礼の数が全体的に増え,エルサレムへの巡礼も,サンティアゴ・デ・コンポステラへのそれと並んで、ますます頻繁に行なわれた。そしてこれに伴い,巡礼路や僻村が改善,整備され,修道院には巡礼者用の宿泊所が設置された。しかし,中世84

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