鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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テシピエッティ/r、神殿の建設が汎ヨーロッパ的に展開されてきたが,こうした模造の探究が,可能なエデイコリも末になると,政治的不安定,農業の発展や日常生活の諸条件の改善,また第四回以降当初の聖地恢復の理念を失い,遂に初期の目的を達せられずに終わった十字軍の失敗,異教のトルコ帝国の勢力の再拡大,さらにはキリストの「受難」に対する信仰を煽り,各町々を一時的にエルサレムに変貌させるのに成功したフランシスコ会修道士の活発な活動や聖体の秘蹟に対する信仰の普及,日々の生活を送る中で個々人の中にエルサレムのキリストを探すことを説く神秘主義者たちの活動といった,政治や経済,宗教,信仰上の諸状況が原因となって,危険を冒し,大金をかけてまでエルサレムに巡礼する必要性が次第に失われていった。このような状況の中で,生命を賭してまでは危険な長旅を敢行できない者に巡礼の機会を提供したり,巡礼の意味を後世に伝えることを目的に“代用的実践”が導入されるようになった。従って,居住する地域の近くにあるサンチュアリオ(聖人の遺物などによって巡礼者の目標となった聖地,聖域)への巡礼や奉納行為は,15世紀にあっては“代用的巡礼の実践”を意味していたが,このようなエルサレムと代用的聖地との関わりは,そこに何らかの特別な聖遺物(聖地からの請来品であればなおさらよい)が納められたり,建築物の外観や献堂名に聖地パレスチナを偲ばせるものが含まれていればますます強められることになった。聖なる建造物,聖なる品々の多くが,いわば聖地の象徴的模造品や聖遺物であるヨーロッパでは,キリストゆかりの地を何らかの形で模し,再現するという願いは,早くからコンスタンティノポリス,ローマ,ボローニャ等で具体的形をとって表現され,9世紀を過ぎると,エルサレムの聖墳墓(サント・セポルクロ)や円堂(アナスタシス)を記念,あるいは模倣した小礼拝堂やF艮り聖地パレスチナに近づけることを目的に,最初に最もコンパクトな形で実現をみたのは,ヴァラッロ・セージアにおいてであった。1493年に土地の住民から建設地の提供を受け,続いて1496年には教皇インノケンテイウス八世の許可を得て,この宗教的総合施設の建設(一部はすでに1491年に着工)に着手したのは,フランシスコ派厳傾2会の神父,ベルナルデイーノ・カイーミであった。一般に“ヌオーヴァ・ジェルザレンメ”(新しいエルサレム)と呼ばれるこの総合施設には,キリストゆかりの土地であるナザレ,ベツレヘム,エルサレム,ゲッセマネ,オリーヴ山,カルヴァリオの正,シオン山,ヨシャファトの谷が含まれ,それぞれの土地に存在する建築的要素を偲ばせる礼拝堂が配された。-85-

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