2. トレント公会議後のサクロ・モンテ約20年に及んだトレント公会議(1545年〜1564年)が終わると,北イタリアのアル〜1584年)であった。彼はアローナの貴族の出で,叔父のジョヴァンニ・アンジエロ・このヴァラッロのサクロ・モンテとほとんど平行して,フィレンツェ県にも“新しいエルサレム”が誕生した。これがポントルモの壁画へのテーマ的影響を考察すべきサン・ヴイヴァルドのサクロ・モンテである。カイーミ神父同様に,厳修会に属するフラ・トマーゾ・ダ・フイレンツェが創設,設計したとされるこの総合施設は,トスカーナ州における唯一のサクロ・モンテであり,ヴァラッロと同様に,パレスチナを回想させようとするものであったが,さらに地形的にもできる限り忠実に聖地(マムルーク朝(1250〜1517年)時代)を再現しようとした点で,ヴァラッロ以上に忠実なエルサレムの地形模倣的コピーであったといえる。しかも,ヴアラッロの施設が後代に大幅な修正を加えられるのに対し,モンタイオーネのそれは,失われたり,献堂名を変えられたりした礼拝堂があるとはいえ,全体の配置はほとんど手つかずのまま今日まで伝えられた。以上の二例は,いずれにしても“エルサレム再現型”と定義しうるもので,付近に住む人々に,危険がない上に再訪も容易な理想的巡礼の機会を提供しながら,強烈に聖地のイメージを刻印しうるものであった。また,二つの施設がいずれもフランシスコ派修道士,とりわけ厳修会士によって創設されたことも意義深い。今日まで\両創設者の,聖地,もしくはトスカーナにおける避遁の可能性が,決定的裏付け史料を欠いたまま推測されてきたが(注6),仮にその直接的接触の事実を確証できないにしても,聖地エルサレムの番人として13世紀前半から聖地にあったフランシスコ会士の環境の中で「サクロ・モンテjが“ヌオーヴア・ジェルザレンメ”として産声をあげたことは否定しえない。プス地方,及びアルプス前山地域に,プロテスタント教会に対する公会議派の一種の要塞が形成された。こうした動きには,レパント海戦(1571年)でのトルコ軍に対するキリスト教徒の艦隊の勝利も大きな影響を与えたが,対抗宗教改革の動きの推進に重要な役割を果たしたのは,後に列聖された(1610年),カルロ・ボッロメオ(1538年メデイチがピウス四世として教皇の座につくと,ローマに招かれ,まだ司祭ですらなかったにもかかわらず枢機卿に任命され,対抗宗教改革に取り組むローマ教会の活動に積極的に参加した。兄弟のフェデリコの死(1562年)に際して生地アローナに戻っ86
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