鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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てからも,司祭,司教,次いでミラノの大司教を歴任し,管轄地域の司教訪問を重ねながら公会議の信条の流布に努めるとともに,サンチュアリオの実現や,ローマ教会と信者間の建設的関係をっくり出すのに適した事業を奨励した。こうしたローマ教会の動きとカルロ・ボッロメオの活動は,サクロ・モンテの現象にも多大な影響を与えた。その影響は,キリストの現世における存在の証拠であった土地の純粋な回想,再現を目的としていたサクロ・モンテの形態に代わり,公会議の指示やボッロメオの宗教建築,美術に対する規定に基づいた表現形態のサクロ・モンテが登場し始めることに端的に示されている。つまり,聖書がキリストについて語る事件の経過に忠実な物語的教理教授的表現,あるいは,新しい象徴的なテーマ(諸聖人・陰修士・悔俊者の生涯やロザリオの十五玄義)を伴った寓意的一典礼的表現,およびそれらに適した礼拝堂の配置をもっカトリックの要塞としての施設が出現し,地形模倣的,聖地再現的表現は身を潜めることになった。すでに,ヴァラッロでは,1565年から1569年にかけて,軌道修正のいま一人の立て役者である建築家,ガレアッツオ・アレッシが,施設全体を“理想都市”的に再整備する計画を進めており,すでに存在していた礼拝堂は,キリストの生涯の最も劇的なエピソード(「受難」と「復活」)の論理的な解釈に従って再配置された。しかし,1570年から死を迎える1584年までの聞に何度かヴァラッロを訪れたカルロ・ボッロメオは,T谷人のアレッシの計画を受け入れず,建築的に簡素な礼拝堂を求めたので,アレッシめプロジェクトが全面的に実現されることはなかった。またボッロメオは,堂内の聖なる場面を単なる室内の調度に引き下げたアレッシに対し,室内表現に最も重きを置き,それをプロテスタントの宗教改革によって土台を揺るがされたカトリック信仰のプロパガンダの有効な具となるようにした。その他,この時期の象徴的なテーマをもって16世紀末に建設された他の二つのクレアとオルタのサクロ・モンテも,それぞれ聖母マリア,聖フランチェスコの生涯を論理的解釈に従って展開したものである。一方,ガッリアーテの例は,ロザリオをテーマとした早い例としてこの時期に形を取り女古める。カルロ・ボッロメオの後,サクロ・モンテの建設に影響を与えたのは,中心的な聖耳識者,フェデリコ・ボッロメオ(1564年〜1631年,カルロ・ボッロメオの甥,1595年よりミラノの大司教となる)と,カルロ・パスカペ(1560年〜1615年,1593年にノヴ7ーラの司教となる)で,従来のサクロ・モンテの教理教授的,あるいは典礼的,祈-87-

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