3.ヴイア・クルーチス祷中心的な礼拝堂の配置や設備の補完,ないしは修正を行った。カルロ・ボッロメオの要綱の忠実な訳者といえるパスカペはヴァラッロでは山の中央の中心的ゾーンを整備した他,すでに存在していた礼拝堂の聖なる場面に修正を加え,アローナでは進行中の建設作業を拘束した。ヴァレーセの華麗なサクロ・モンテがロザリオの十五玄義をテーマに掲げて立ち上がるのはこの時期のことで,以後,主題,ないしは礼拝堂を一定の間隔を保って配する方法において,後代にこれを手本とした多くの類例が建設されていく。約30年後,コモ湖畔の美しい小村,オッスッチョに建設されたサクロ・モンテはその最たるミニチュア版である。また,当初のサクロ・モンテの意図に反して,この時期には,巡礼者と室内の環境を隔てる格子窓や鉄柵が付加されるようになるが,以後のオローパやグイッファ等のサクロ・モンテはこのような変化した精神的風土の中で誕生したものである。対抗宗教改革に取り組む高位聖職者たちの強い影響を被った時期が過ぎると,サクロ・モンテは,その最後の表明として,次第に新たな特徴を示し始める。17世紀後半から増え始める主題,「ヴイア・クルーチス」(「十字架の道」)がそれで,ある意味では聖地エルサレムの存在を再提示したものであった。ヴイア・クルーチスの特殊な信仰の直接の起源は知られておらず,低地地方やドイツに流布した,キリストのゴルゴダの正に向けての道行きと途中での蹟きに対する信仰に直接の根をもっとも言われるが,それが,聖フランチェスコ以来の,キリストの人性,とりわけその地上での「受難」に中心をおく革新的な信仰の軌道上に,十字軍時代に始まった聖地パレスチナのキリストゆかりの土地に対する伝統的信仰をも基礎として次第に発展した信仰形態であることは否定できない。この信仰形態は,15,16, 17 世紀の発展過程には,「受難」の場面や留の数(最小7,最大37)が定まらず,様々なヴァリエーションを見せているが,1686年にインノケンティウス十一世が「聖地の管理にあたるフランシスコ会士による」実践形態に瞳宥を許可してからは,今日のように14留のヴイア・クルーチスが優勢となった。14留の起源は,それをまず17世紀にスペインに,次いでイタリアのサルデーニャに導入したフランシスコ派修道士に帰され,ちなみにイタリアでは,最初期の14留のヴィア・クルーチスは,フィレンツェのサン・ミニアート門からサン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会(1415年にフランシスコ会の修道院が設置された)の斜面上(1628年)と,同じくトスカーナの町,ピ88
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