ストイアのジャケリーノの丘上(1408年にはすでに厳修会の定着が確認されている)に1630年に建設された。この後,イタリアでは,ヴイア・クルーチス信仰は,既述のインノケンテイウス十一世が瞳宥を許可した17世紀後半に大いに流布し,18世紀前半には最盛期を迎えるが,こうした動きがサクロ・モンテの現象に影響を及ぼさないわけはなく,17世紀後半のドモドッソラのサクロ・モンテを早い例として,18世紀に多彩な変種も見せながら続出する総合的施設の多くが,主題として「ヴィア・クルーチスjを取り上げるようになった。しかし,サクロ・モンテの第三の際立つた類型として強烈に自己を主張し始めるヴイア・クルーチスも,彫塑像と壁画によって聖なる場面を表現した礼拝堂を教会堂の外部か内部にもちながら,過去の先例に劣らぬ規模の真のサクロ・モンテを形成したものは少なく,多くの場合は,簡素な小礼拝堂内に,絵画か浅浮き彫りで聖なる場面を表現する形式に甘んじている。その他,フランシスコ派の改革派修道士レオナルド・ダ・ボルトマウリツィオが1731年から1751年までのわずかな期間に建設した572に及ぶヴイア・クルーチスの施設の場合には,ボルゴセージアやグイッファに見られるように,すでに存在しているサクロ・モンテかサンチュアリオにヴィア・クルーチスを付加する形がとられた。II .若干の分析以上,サクロ・モンテの歴史を手短に辿ってきたが,一体イタリアでは全体ではどのくらいのサクロ・モンテが建設されたのであろうか。C.T.ロッテイ氏は,未完成にキ冬わった概念的には不適切なもの,また,イタリアとの国境に近いスイスの二都市のそれを含めて16のサクロ・モンテ(従ってイタリア内では14)を列挙している(注7)。サクロ・モンテの成立条件にまだ検討の余地がある現在,ある総合施設をサクロ・モンテと呼びうるか否かの決定は困難で、あるが,未完のものや内蔵型,高さを欠くものを加えることが可能であれば(注8),ロッテイ氏の一覧にかなりのサクロ・モンテを加えることが許される。まだ,すべてを踏査しえたわけではないが,これまでの調査・石汗究の中で見い出したイタリアにおけるサクロ・モンテは別表の通り24を数える〔表2〕。また,c.デピアッジ氏によってすでに存在を指摘されながらも(注9),その施設の状況をまだ把握できていない幾つかの施設が,サクロ・モンテ群に加えうる体のものであれば,その数はさらに増すことになる。その他,これまでのサクロ・モンテ-89-
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