江戸時代における画家の訓練,特に粉本主義を考えるとき,まずとりあげなければならないのは狩野派である。狩野派の画系を継承する画家に限らず,およそ当時の画家達はみな,その修業時代において,狩野式の教育を受けた。狩野式の教育法は,江戸時代の画家における絵画技術の理解を規定したのである。現代においても,大家の作品を模写することは,多くの日本人芸術家にとって一般的な訓練法である。本報告が問題とする江戸時代の画家にとって,模写とは,中国絵画の技法や様々な日本絵画の図様を写すことを意味する。中国画を源とする文人画の画家達もまた,画家を養成するために,模写や絵手本を利用していた。江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した画家奥原晴湖もまた,そうした文人画家のひとりであった。つまり,中国や日本の文人画家たちは,狩野派の画家達と同じように,模本によって,適確な筆法や図様構成といった絵画の規範を習得したのである。ただし,狩野派における粉本が,主要各地に設置した工房のネットワークを通じて,狩野派が定めた技法の基準や画風の同一性を維持するための手段であるのに対して,文人画家における粉本とは,画家が独自のスタイルを確立するために学ぶ絵画形式の基本というべきである。晴湖は,文晃の門人であった地方画家,枚田水石(1796〜1863)の粉本を学んだ。文晃は,狩野派の画風を学び,のちに自分の弟子たちには,自身の好尚を反映した折衷画風の粉本を伝授した。そして水石は,文晃のこの折衷画風を学んだ,多くの門人の中のひとりであった。それゆえ晴湖は,文人画の描法を文晃の画風から間接的に学び,のちに自分が弟子を指導する際にも,やはり文晃の画風を反映した彼女の粉本を使用した。とはいえ,明治時代における晴湖の名声が,生気あふれる晴湖独自の画風によることもまちがいないところである。すなわち,晴湖の筆法は,数世紀にわたって積み重ねられてきた文人画の伝統を踏まえ,さらに独自の発展を遂げたのである。いいかえれば,文晃が,様々な絵手本の中から取捨選択することによって自己の画風を確立したように,晴湖もまた,伝統を踏まえた自己の画風を得たのである。以上に述べたように,晴湖の作品からうかがわれることは,まず,狩野派と同じく,文人画家の画業においても,粉本が重要な役割をもっていたということである。晴湖が限定された図様構成を踏襲したことは,彼女が文人画の伝統を保持したことを意味している。そしてまた,晴湖の筆法が変化し続けたことからは,文人画家としての晴湖の軌跡をみることができるのである。奥原晴湖は,江戸時代後期の武士階級の女性に課せられた厳格な役害肋、ら免れ,職-89-
元のページ ../index.html#100