鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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業画家としての生涯を送った。当時,古河藩重臣の娘である晴湖の運命は,まず家に役立つための結婚をすることであった。そして文人画は,上級武士がたしなむ余技のひとつであり,画家の門人として文人画を習うこともまた上級武士のみに聞かれていた。当然,年若い女性の晴湖が,門弟として文人画を学ぶことは許されなかった。しかしそのかわり,晴湖は古河藩お抱えの画家の個人教授を受けることにより,数世紀にわたって培われた文人画の構成や筆法に接した。これにより,晴湖は,古様な中国絵画に基づく絵画と,江戸における同時代画家の絵画という,新旧の画様を学習することができたのである。さらに晴湖は,当時の正式な文芸であった中国の古典文学と書を学んだ。そして古河での修業を終えた晴湖は,江戸に出て,その非凡な才能によって,画家としてまた教育者として自立する。現存する膨大な量の粉本や絵手本が丁寧に整理されていることからすれば,晴湖が聞いた画塾において,晴湖が弟子達に粉本制作を励行したことは明らかである。これら粉本は,晴湖が谷文晃の画系に列する画家であることを示している。奥原晴湖に関する資料を概観して気づくことは,晴湖がきわめて独創的かつ精力的な画家であったことである。晴湖は,熟練した画技を掌中のものとし,弟子の訓練においてもその画技を伝授した。平成2年(1990),晴湖に関する膨大な資料(粉本,漢詩,その他の資料からなる「奥原家コレクション」)が,晴湖の後育により古河歴史博物館に寄贈された。このコレクションの内容としては,まず,実物大の模写と,細密に描かれた縮図帖や写生帖が挙げられる。このうち,実物大の模写すなわち粉本は,往古から同時代に至る大家の絵画と,彼女自身の絵画を写したものである。また,漢詩帖は,これら絵画資料に匹敵するほどの大部であり,これもまた凡帳面に整理され,注釈が付されている。それゆえ,これら奥原家コレクションにみられる様々な習作と,現存する多数の完成作,そして数点の作品に関して留められた記録を検討することにより,晴湖がいかに様々な粉本の情報から自己表現としての作品を生み出したかをたどることができる。さらに,ここには晴湖に関する記事も含まれる。彼女の作品やその自立した生き方は,在世中より,新聞雑誌や伝記本によって知られていた(注3)。これら資料の内容は,江戸〜明治時代の画家にとってさして珍しいものではないが,晴湖の場合は,内弟子であり生涯の随伴者であった渡辺晴嵐(1855〜1918)が,これらの大量の資料を整理したことは特記される。晴湖は,模写をジャンルごとにまとめ封筒状の包みに納め,画帖はそれぞれ異なる布表紙を被せて,グループごとに束ねた。90

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