鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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これら資料に記された表題はすべて晴湖の直筆とみられるが,一部については,晴湖のくせのある書体に倣った晴嵐が書いた可能性も考えられる。寄贈された奥原家コレクションは,そのままのかたちで保管され,ほとんど聞かれる機会がなかった。今回これら資料を取扱う上で注意すべきことは,晴湖の粉本の多くに制作日が記されていないことである。しかし,これら粉本は,晴湖自身によって絶えず制作され,それを弟子達にも写させたはずである。奥原家コレクションは,晴湖の思考のあり方のみならず,弟子の教育法,同業者や注文主との関係を究明するうえでの,重要な証拠となるものである(注4)。学習の時代奥原晴湖は,天保8年(1837),古河藩大番頭池田政明の四女として生まれた。藩主の土井利位(1789〜1848)は学者肌であり,周囲には,学者や芸術家,書家といった同好の士が集まっていた。利位自身,日本で初めて雪の結晶を顕微鏡によって観察し,図解した人物として知られている。江戸時代後期の保守的かつ抑圧的な政治・学術的状況の中で,古河は,西洋知識をはじめ進歩的な研究のー中心地であった(注5)。晴湖は,当時の女子が学ぶ習いごとではなく,i莫学や書の学習を好み,十代後半には文人画を描き始めていたと思われる。晴湖の初期の模写には,嘉永6年(1853)の紀年が記されたものがあり,これは晴湖17歳にあたる。この時期の模写には,師の水石から「石」の一字を拝領した最初の号「石芳」が記されている。古河での晴湖が,水石以外にどのような人々から教育を受けたか,その名前を同時代の史料にうかがうことはできないが,後に晴湖が語った言葉によれば,古河の学者達との談論に得るところが大きかったようである(注6)。有能な政治家や学者達によって培われた環境の中にあって,晴湖が文人画を学ぶことそれ自体は,藩士の娘という地位にふさわしいことであった。しかも晴湖は,彼女の階級や地位,藩主をとりまく学究的雰囲気を別にしても,早い時期から中国的な美意識を好んだと思われる。中国的な主題や作風の絵画や漢詩が膨大に残されているのに比べて,晴湖の和歌はごくわずしか確認されないからである。晩年,晴湖の家に,多くの中国家具が置かれていたことも想起される(注7)。晴湖はいわゆる神童というタイプではなかったが,一途に研鑓に励む修業生であった。枚田水石は,晴湖に,なによりもまず,粉本や模写を制作することに専念させた。-91-

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