←92 水石が所持する粉本は,谷文晃のもとで得た粉本と,古河藩を訪れた画家や学者から得た粉本からなる。あるいはまた,晴湖が,古河藩が所蔵する数多くの日本・中国絵画の実物を見て学習した可能性もありうる(注8)。晴湖は,これらの手本が示す用筆を習得し,その落款の文字までも厳密に写しとった。これらの手本が,実物の絵画であったか,あるいはすでに模写であった(当時にあっては後者の可能性が高い)の問題はあるとしても,ともあれ晴湖は,文晃系の画家を通じて,明・清絵画の構成や様式を学んだといえる。この粉本学習によって,晴湖は,文人画と狩野派というふたつの伝統を体得した。文晃が確立した折衷画風は,文晃自身の作品に活気を与えたばかりでなく,多くの日本人が文人画を描くことを促し,その後l世紀を経たこの時期,文人画は日本絵画の1ジャンルとして認知されるまでになった。晴湖は,こうした文人画の道程を学習し,そのうえで,従来にはとり上げられなかった中国書家の書風や,十九世紀半ば以降の日本に愛好された中国人画家の画風を取り込みいっそう折衷的な画風を創出したのである(注9)。晴湖は,手本の構成や色調,特徴的な筆法を丹念に写しとり,紙背に自身の落款を記した。これら粉本が,晴湖の絵画制作にいかに有効で、あったかは,粉本を主題別に分類することにより明らかとなる。すなわち,現存する晴湖の完成作に山水画や花鳥画が多いことは,習作の内容を反映している。概していえば,晴湖は,古典的な中国の文人画家王原祁(1642〜1715),長崎を訪れた中国人沈詮(18世紀)や張秋谷(18世紀後半)を模写し,日本人の文人画家谷文晃や渡辺華山(1793〜1841),畢山の弟子の福田半香(1804〜1864)や椿椿山(1801〜1854)の山水画や花鳥画を写した。しかしここに,18世紀の京都の文人画家,与謝蕪村(1716〜1783)や池大雅(1723〜1776)といった大家や,19世紀の著名な画家田能村竹田(1777〜1835)の作品は少ない。このことには,文晃が関東の地で活躍したこと,つまり関東画家であることを反映している。晴湖の粉本の中に関西画家の作品が少ないことは,著名な画家といえども,文晃一門が彼らを好まなかったことを意味する。奥原家コレクションに含まれる大量の粉本は,修業時代の晴湖が,具体的にどのような研鐘を積んだかを示している。これによれば,晴湖は,谷文晃の画様のみならず,むしろ渡辺畢山から多大な影響を受けたことがわかる。また中国絵画の粉本の多くは清代の多様な古典的絵画であり,それに元・明時代の著名な絵画が加わる。このうち
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