鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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28歳の晴湖は,この抑圧を巧みに逃れて江戸に移り,職業画家として歩み始める。江せた絵画を,晴湖は繰り返し制作している。また,晴湖の花鳥画の習作には,写生面も含まれる。写生は,谷文晃の教育法の一環であり,というよりも19世紀の日本画家には一般的な学習法であった。対象の観察を要する写生のあり方は,ちょうど古河における洋学奨励に同調するものといえよう。奥原家コレクションの写生帖において特に注目されるのは,若き日の晴湖が制作日を記した,「兎図Jである。兎は,薄墨で輪郭を描いて白色を薄く塗り,かすかに朱の陰影が添えられており,少ない筆線によって兎らしさを巧みに表わしている。図には「真写」と添えられており,このことからも実物からのスケッチと知られる。もちろん晴湖は,その後も数多くのスケッチを制作したはずであるが,現在それらは,晴湖と弟子の晴嵐の画帖の中に混在しており,酷似するふたりの筆致の中から,晴湖の筆を識別することは難しい状況にある。晴湖の粉本において,最後に挙げる主題は人物画である。晴湖の場合,人物画の粉本は少なくないが,しかしそこから自身の作品にまで進展することはなかったようである。つまり,粉本によれば,晴湖が人物表現を丹念に学習したことはうかがわれるが,自身の作品中の人物は,簡単な筆致で表わされるにすぎない。なお,人物を描いた粉本は,山水画中の人物が大半で、あるが,歴史画や宗教画の中にもみられる。地方の修業生から江戸の画家へ晴湖が,十代より二十代の時期に受けた訓練は,いわば余技画家のためのものにすぎなかったが,それを会得した晴湖は,職業画家となることを目指した。しかし,彼女をとりまく環境は,伝統によって厳しく抑圧された世界であった。江戸幕府の統制のもと,女性は,藩に対する一家の忠誠心を保証するための,いわば人質的役割を担う者であり,古河潜では,女性が藩を出ることすら禁じていた(注11)。慶応元年(1865)戸に出た奥原晴湖が,当時第一線で活躍する文人墨客たちが住んでいた下谷に居を定めたことからは,彼女の画家としての意気込みが感じられる。晴湖は,自宅兼画室を「墨吐煙雲楼」と名づけ,この地に明治25年(1891)まで住むことになる。この時期,晴湖は凡帳面な出納帳をつけており,それによれば,作品制作によって蓄財を増していったことが知られる。しかし,日記らしいものは何も残されておらず,晴湖の画家としての足跡は,作品にうかがうしかない。94

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