画家晴湖の初期の作品は,ダイナミックな筆づかいに特色がある。その作風は活気にあふれ,そこからは彼女の充実した画家生活が推測される。特にこの頃制作された「松風鶴夢図」は,明瞭な図様構成と活気に満ちた表現が調和した,印象的な作品である〔図6〕。晴湖が到達した芸術性として,この抽象的ともいえる,激しい筆法が挙げられる。その筆線は,たとえ荒々しいタッチであったとしても,粉本によって学んだ、的確な構成力に裏付けられた筆法である。晴湖の知名度は,作品に対する高い評価によって,また画家晴湖のデビューを祝う「披露宴jを催したことによって,高まったと考えられる。慶応元年(1865)暮に行われたこの宴は,彼女が「晴湖jの画号を採用したことを祝うためのものであった(注12)。晴湖の地位や古河藩とのかかわりにより,宴には,当時の著名な芸術家が,二十名以上出席した。なかには,詩人の大沼枕山,櫨松塘,関雪江,植村塵洲,書家の高斎単山,山内香渓,画家の松岡環翠,鈴木鷲湖,阪田鴎客,福島柳圃そして服部波山といった名前がみえる(注13)。江戸時代における文人趣味は,同好の士が集う雅会の中で育まれた。雅会とは,後援者や画家,詩人が談論し,絵画を鑑賞し,酒を飲みそして詩をよむ会であり,先に述べた晴湖の「披露宴jもその一例である。雅会の文化は,この時代には珍しく,才能ある者ならば,女性も参加することができた。晴湖の,画家としての才能や,外向的で歯に衣着せぬ率直な人柄は評判となり,活気に満ちた「席画」が,人気に拍車をかけた(注目)。晴湖の人気の高さは,慶応3年(1867)の番付『風流名家三幅対』に確認することができる。ここでは,女性芸術家三人の作品として,晴湖の竹の絵,小川美佐子の詩,中林竹洞の娘清淑(1829〜1912)の桃の絵が選ばれている(注15)。明治元年(1868)徳川氏による封建社会は崩壊し,江戸をはじめとする主要都市は混乱に陥ったが,実権を握った藩閥官僚により秩序は回復され,西洋の技術を導入した富国強兵の政策が推進された。江戸改め東京は,日本の首都として,そして芸術文化の中心地として,再び活況をとりもどすことになった。若き指導者達は,漢学を教育された人々であり,すなわち文人画はこうした人々の間で愛好されたのである。こうした環境の変化の中で,晴湖は,生気あふれる洗練された画風により,そして師とした大沼枕山の地位や人脈によって,画壇での高い地位を確立してゆく。政治家の木戸孝允(1833〜1877)は,晴湖にとって最も著名な後援者であり,友人でもあった。その交友関係は,木戸の日記に詳しく記されるところである。また晴湖が,土佐藩主-95-
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