鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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にしてすぐれた収集家,鑑定家でもあった山内容堂はじめ,鋒々たる名士達と交流していたことからは,彼女の巧みな処世術がうかがわれる(注16)。このように華やかな交流関係をもっ晴湖であったが,しかし美術界における晴湖の地位は,なによりもその個性的な絵画様式によって築かれたというべきである。粉本による訓練は,晴湖を文晃一派の忠実な継承者としたが,この訓練を終えた晴湖にとっての課題は,自身のオリジナリティーを確立することであった。晴湖の場合,慶応3年から明治3年(1867〜1870)の時期が,自身の様式への転換期となる。すなわち,東京での生活が晴湖に新しいイメージと発想を与え,と同時に同業者に対する自我の意識が芽生えた時期である。この時期以降,晴湖の画風は,修業時代に学んだ端正なスタイルを脱して,椴密な画技を重視しつつ生気に満ちた筆法を駆使するものになる。先に挙げた「松風鶴夢図」は,動きのある大胆な構成であり,変化に富んだ息の長い筆致を駆使し,余白を効果的に配した作品である〔図6〕。これをみれば,晴湖が,基本的な構成力を保ちつつ,自身の筆法へと発展させたことが看取される。教育者としての晴湖晴湖は,教育者としても名望を博した。明治5年(1872)11月,自宅兼画室に聞いた「春暢学舎jで,晴湖は,それまでに自身が教授されてきた漢学,詩,書,絵画を今度は教授することになる(注17)。「春暢学舎」の名は,後に述べる厳格な教育内容とともに,またたく聞に評判をよび,数多くの弟子が入塾した(数年間でその数は300人に達したといわれる)。このため,晴湖は,彼らの指導に多くの時間を割いたはずで、ある。晴湖は,女子の寄宿を認めたが,男子は通学とした。この差別は,女性の家に男子が生活することを認めない当時の道徳を反映したとも考えられるが,必ずしもそうとはいえず,むしろ絵画や学問を真剣に続けたい女子にとって,家事や雑事から解放される必要があることを,晴湖が認識したためではないだろうか。いずれにせよ,寄宿する女子に対して,暗湖はなみなみならぬ情熱を注いだ。弟子の中には芸者もおり,このことは,晴湖の社会的交友の幅広さと,芸者が丈入社会の構成員であることを示している(注18)。実際に,晴湖の教授法がどのようなものであったかは不明だが,開塾時に掲げた「家塾開業願Jによって,カリキュラムの概要が知られる(注19)。入塾した弟子は,午前8時から正午まで漢学全般(四書五経,正史)を学び\正午から午後3時までは書画,96

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