鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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そのあと9時までは詩や文学を学習する。休日はlのつく日(1日,11日,21日)であり,定期試験は4と9のつく日(4日,9日,14日,19日,24日,29日)に実施される。そして,弟子にはふたつの注意が課せられる。ひとつは定められた休日以外に休まないこと,もうひとつは「雑談を禁ず」というものであった。このことからみて,「春暢学舎」の教育プログラムは,狩野派のそれと同じように,日々のカリキュラムが綿密に編成されていたものと推測される。そして,中国古典の学習として,絵画と文学両方を教育することは,東京美術学校のカリキュラムのさきがけをなしている。ここで,晴湖の絵画制作に関わる資料をみておくと,それらは次の三種類に大別される。第一のグループは,いうまでもなく粉本すなわち原す大の模写である。晴湖は,枚田水石のもとで制作した数百枚におよぶ粉本を使用したはずだが,これら初期の粉本は,その状態からみて,使用したとしてもきわめて慎重に扱われていたようである。没後数十年を経て奥原家の蔵から取出されたこれら粉本は,丁寧に折り畳まれ,これをおさめた紙挟みには紐がかけられていた。第二のグループは,「粉本Jと題した,小版で簡単な装丁を施した画帖である。画帖は,およそ24×20センチの紙を冊子状に綴じて紙表紙を付けたもので,各頁とも二・三条の縦長に区画を設け,その枠内に様々な図様を墨書きする。修業時代の原す大粉本が丁寧に描かれたのに比べ,これら画帖は,行体から草体の描法により図様を大雑把に記したものであり,おそらく日常的な手引きとして使用されたものと考えられる。またそのうちの数冊には,晴湖が,思いついた図様をすばやく描き留めたものらしく,様々な図様のバリエーションが速筆で記されている。制作時期は,その筆法からみて,明治時代初期(1870年代)とみなされる。第三のグループは,「縮図」と題した画帖で,これはスケッチの小片を画帖に貼ったスクラップブックである。その表現は「粉本J画帖とは異なり,細かな筆致による真体の描法によるもので,彩色を施している。筆法やモティーフの配置などの特色を勘案すれば,おそらく1880年代から90年代の数年間に制作されたと推測されるが,その時期を特定することは難しい。なお,以上に述べた資料を扱う際には,きわめて注意を要する。なぜなら,晩年の晴湖が晴嵐とともに,これらの資料を整然と編集したことは知られているが,実際には,ふたりによる編集・体系化はもっと早い時期より行われていた可能性があり,その段階で資料の編年に混乱が生じたことが推測されるからである。-97-

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