(1883〜84)になると,晴翠は都内に自身の自宅兼画室を構える。晴翠は独立した画家晴湖の弟子晴湖にとって最も近しい弟子は,奥原晴翠(1852〜1921)と渡辺晴嵐である。江戸に来てl年とたたない慶応2年(1866),晴湖は晴翠を養女にした(注20)。晴湖のこの行動はきわめて興味深い。その前年,29歳の晴湖は古河藩を出て,藩の呪縛から逃れてから間もないことである。養女を迎えた理由としては,結婚の圧力から解放された晴湖が,家族的な人間関係を求めたためとも考えられるが,むしろここでは,愛弟子を法的な後継者にすることによって画系の継承を図るという,職業画家の慣習に倣ったものと考えるべきであろう。晴翠は,晴湖の画系を継承するにふさわしい弟子であった。彼女は,晴湖の画塾に入る以前,短期間ながら,京都の著名な女流画家跡見花際(1840〜1926)に就いていた。そして晴湖に就いた晴翠は,晴湖から絵画を学び,大沼枕山らから漢詩を習った。しかし,この恵まれた環境にもかかわらず,晴翠が晴湖にとっての愛弟子であったのは明治元年(1868)までと短く,その後明治16〜17年として活動し,展覧会への出品は,その没年(大正10年[1921])まで続いた。一方,晴嵐がどのような経緯により,晴湖の随伴者となったかは明らかでない。晴嵐は終生晴湖のそば近くにいた弟子であり,その意味では晴湖の画風の真の後継者であったといえる。晴嵐が晴湖の画風を墨守したことで,落款のない作品からふたりの手を識別することは不可能に近い。晴湖が作品の注文に応じきれない時には,晴嵐が代筆したともいわれる。晴嵐が描いた絵画が好ましければ,晴湖は自分の落款と印章を入れ,自分の作品としたのである(注21)。こうした制作事情は,文人画家のそれではなく,職業画家の工房制作のあり方である。すなわち,晴湖が作品の画様を規定すれば,晴嵐はそれを忠実に具現化することができたのである。晴湖の粉本を学ぶことで絵画技法を忠実に身につけた晴嵐であればこそ,晴湖の造形語棄による作品を制作できたのであろう。画室での仕事は,下絵を制作し,注文に応じた作品を描き,弟子達の訓練をも行うといった,多岐の内容にわたる。作品制作に関わる仕事は晴湖と晴嵐によって進められ,晴嵐には,下絵を制作する仕事が任された。一説によれば,ふたりが日本各地を旅行した際,実際にスケッチを描いたのは晴嵐であり,またふたりがある後援者で蒐集家である人物を訪れた時には,晴湖がその後援者と話している聞に,晴嵐が所蔵コレクションの中から数点を臨模したといわれる(注22)。人生のほとんどを,晴湖の誠
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