実な随伴者としてまた内弟子として過ごした晴嵐は,晴湖の在世中,自筆の作品に自分の名前を記すことはほとんどなかった。そのわずかな自身の作品を除くならば,晴嵐の画業は,晴湖のための下絵制作であったといえる。晴嵐の撃しい量の粉本は,晴湖と同じようにジャンル別の封筒に納められており,晴嵐には写生帖が加わる。写生帖に貼り込まれたスケッチは,粉本に用いる薄紙に細密な筆致で描写され,彩色が施される。ただし,そのうちの1セットは,片側を綴じた大判の形式であり,おそらく画室で図様の概略を参照するためのものと思われる〔図7〕。晴嵐の写生画には,対象を直裁に描写し,特に細部の表現に執着する晴嵐自身の特徴が看取される。晴湖に学んだ男子の弟子には,後に名をなした人物の名もあり,そのひとりに岡倉覚三(天心,1862〜1913)がいた。天心は,日本美術史研究の草分けとなり,また日本の美術や文化に関する英文の著作をあらわし,東京美術学校の校長を務めた。晴湖の画塾には14歳で入門している。文人画の晴湖と,新日本画を推進する天心という立場の違いはあっても,天心は晴湖の生涯にわたる友人のひとりであった(注23)。天心と晴湖は詩を交わし続けたといわれ,そしてふたりは同じ年に世を去った。天心との交友関係は,先に述べた木戸孝允と同様,「男性と対等」であった晴湖の社会的,職業的地位をうかがわせるエピソードである。明治24年(1891)'55歳の晴湖は,東京を離れる。この頃になると,台頭した洋画におされて文人画は衰退し,その趨勢を反映して,画塾の弟子も少なくなっていた。晴湖の出納帳はまた,絵画の注文が減少したことを示している。そして,新たに建設される官営鉄道が,晴湖の自宅や画室,画塾の場所を通ることになったことが,転居の決断を促すことになった。この年の2月,晴湖は晴嵐をともない,上川上(現在の熊谷郊外)の地に居を移した(注24)。こうした晴湖の生き方は,中国文人のそれを意識したものではないだろうか。中国の理想的な文人とは,儒教的教育を受けた士大夫であり,余暇には絵を描き詩をよみ,あるいは鑑定をする人々であった。そして中国文人の理想的な人生とは,まず周到な教育と訓練を受け,それから政界に官職を得て立身出世し,その後は田舎に隠棲して心ゆくまで芸術に専念する,という三段階からなる。そして日本における文人画家は,こうした中国文人を理想とする人々であった。このことからすれば,晴湖の転居は,中国文人の人生観にしたがったものといえよう。画家としての研鑓を積み,家塾を成功させ,画家として社会に認知されるに至った晴湖にとって,静かな郊外の地,熊谷での隠棲は,文人画家としてふさわしいことであ-99-
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