鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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注(1) McClintock, Martha J., Okuhara Seiko (1837-1913) : The L俳andArts of a Meり1った。熊谷に移って最初の数年間で,晴湖は作風を変え,さらに新たな境地を見出していった。1890年代半ばになると,東京時代の作品にみられたような,自由な,時に荒々しいまでの激しい筆致は影をひそめ,かわって,短い筆づかいで細密に描き彩色を施した,絹本著色の作品があらわれる。この時期の細密画は,現在も熊谷の収集家の間で「晴湖の傑作」として,高く評価されている(注25)。たとえていえば,ピクトリア朝風の作品を当時の英国人がみたように,この時期の晴湖の細密画は,当時の人々にとって,高価な画材を用いて,熟達した技術を駆使し,時間をかけた作品であることを印象づけたといえよう。画塾からの収益がなくなった反面,指導することから解放された晴湖は,収入を得るためにも,作品制作に多くの時間を費やしたと考えられる。しかし,現存する細密な筆法の山水画や花鳥画の粉本が,いつ制作されたかを考えることは容易でない。なぜなら,熊谷時代の晴湖が自身を再教育するために制作したものとも考えられるが,あるいは若い修業生時代に描いたことも推測されるからである(注26)。奥原晴湖の画歴は,当時の画家からみれば例外に位置づけられるが,しかし実際の晴湖の画業は,粉本学習という当時の画家の規範の正統性を示すものであった。晴湖は,門人として絵画を学ぶことは許されなかったものの,粉本を模写することによって文晃の画風を体得し,のちに自身が教育者となってからも,その粉本を学習させた。谷文晃は,狩野派絵画に文人画の画風を取り込むことにより,それぞ、れの画風の限界を越えた,折衷的画様を生みだした。その粉本を学ぶことが,晴湖にとって,きわめて有益な学習だ、ったのである。そのうえで,文晃やその後継者たちは,学んだ図様を自在に組み合わせることにより,中国絵画の様式に基づく,しかし明らかに日本絵画である文人画を制作していったのである。そのひとりである奥原晴湖の,文人画家,教育者そして詩人としての成功は粉本学習の成功を意味することにほかならない。Period Literati Artist (Vol. I -Ill), The University of Michigan, 1991, UMI# 9208612. 100

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