鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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(11) 川島’|旬二『奥原晴湖』筑波書林,1985年,1011頁。(12) 晴湖が画号を「晴湖jとした理由については,未だ一致した見解を得ないが,おある長谷川弓子氏より,懇切なご教示をいただいた。また平成10年(1998),長谷川氏は晴湖の代表作となる作品3点と,晴湖から長谷川家に宛てた手紙33通を,古河歴史博物館に寄贈された。現在,これらの手紙は調査され,その翻刻と目録作りが進められている。現段階においてすでに新たな発見もあるが,いまはその全容の報告を侯つことにしたい。古河j番では,女性が藩の領地を出ることは制限されていたが,この制限は地方的なものであった。隣接する関宿藩に,この規定はない。よそ次の理由が示されている。それは,子供時代の呼び名に由来するという見方である。晴湖の幼名は「セツjであり,その漢字は,晴湖自身や両親によってさまざまであった。このことから,数人の研究者は,20世紀の女性の名前には「子」をつける習慣があることと結びつけ,子供時代の呼び名が,「セツ」と「子jを繋げた「セイコ」であったと推測している。しかし,一家の記録にその証拠は見出せない。また,東京時代の作品には,「晴湖」の前に「東海」ゃ「日本j,稀に「亜細亜」の文字を加えるものがある。一説によれば,「東海Jは東京あるいは関東を指す語であり,晴湖は初期に使用した「費晴湖」とは別に,関西に対する関東画家としての意識を表わしたとされる。しかしこれについては別の見解があり,「東海Jは,中国からみた東側,すなわち東の海に位置する日本のことであるという。同この宴については,稲村量平氏の著書が参考となる。同書には,宴に関する記述のほか,出席者達による合作作品の図版が掲載されている。稲村量平『奥原晴湖J晴湖出版部,1929年,30-34頁。(凶席画には,晴湖の単独の作品,あるいは他の画家や詩人との合作の作品がある。晴湖は,大胆な図様を速筆で表わしており,この作風は,晴湖作品中,今なお高い人気を得ている。ただ,単純な構成にして劇的な作風が,晴湖の画風として認知されることは,晴湖が複雑綴密な作品を描けなかったかのような印象を与える。ともあれ,こうした作風が,晴湖のレパートリーの中で際立つことになった。同石井柏亭「奥原晴湖j『中央美術J3, 1917年,144145頁。画家であり詩人であった清淑については,わずかな史料が知られるのみである。102-

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