。5)(21)に述べた奥原晴湖会の元会員や熊谷の市民には,晴湖の作品の熱心なコレク(16) 木戸の日記における晴湖に関する記述は,1869年1月15日から始まる。(17) 「春暢学舎」の設立の経緯については,会田範治『近世女流文人伝』(明治書院,(19)同前掲書,66-67頁。(1)前掲論文,272頁。彼女もまた,不忍で行われた晴湖の披露宴に出席した。Sidney D. Brown and Akiko Hirota, trans. The Diary of Kido Takayoshi Vol. II, University of Tokyo Press, 1985. 1960年)に,またそのカリキュラムについては同前掲書の66-67頁に詳しい。同『近世女流文人伝』の75頁に掲載されたリストには,数名の芸者の名前が記される。ただし出典は不明である。同もちろん,江戸時代以降,芸術や文化の分野において,芸術的後継者を養子にすることは珍しくない。晴湖が晴翠を養女とした真相は明らかでないが,ひとつには画系の継承のため,そしてまたひとつには,若くして一家をなした晴湖が,結婚を望む女性ではなく,独立した家長であることを示したことが考えられる。仰また,かつて熊谷には,晴湖の弟子やコレクター達による「奥原晴湖会Jがあった。熊谷で刊行された研究資料を参照されたい((1)前掲論文)。筆者が交換留学生として日本に滞在した1988〜1990年に同地を訪れた際,この会に所属していた5〜6人の古老達は,晴湖と晴嵐に関するさまざまな逸話を話してくださった。当時80歳半ばから後半であった彼らが子供であった頃は,晴湖と晴嵐の晩年にあたる。同藤懸静也編『奥原晴湖面集』巧芸社,1933年,47頁。同岡倉一雄「父天心J(『岡倉天心全集決定版』別巻,聖文閤,1939年,22-23頁)に,ふたりの交友関係が記されている。凶晴湖の熊谷転居について,稲村量平氏は,財政,日常生活,家屋の側面から詳述されている(同前掲書,104-114頁)。稲村氏は,熊谷時代の晴湖が最も親交の深かった友人の実子である。ターがいる。彼らは,細密に仕上げられた晴湖の作品を高く評価する。側現在行っている奥原家コレクションの目録作りが,この問題を解く手がかりになると思われる。-103-
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