⑨ ミキ早川とサンフランシスコにおける日系人画壇の研究2 日本での紹介研究者:北j毎道立函館美術館学芸員穂積利明1 はじめに北海道生まれのミキ早川(日本名:早川光子)は,明治41年(1908)に渡米し(注1 ),戦前はサンフランシスコ,戦後はサンタフェで活躍した日本人画家である。彼女は,戦前・戦後を通じて米国で活躍したアジア系アメリカ人女性画家としては最も重要なひとりであり,またアメリカ西海岸において活躍した日本人の画家としても無視できない存在である(注2)。近年,アメリカ国内でもマイノリティへの関心の増加にともなって,埋もれていたアジア系芸術家の活動にも光が与えられはじめている。しかしながら,一旦は忘れられたものを掘り起こすのは容易ではなく,徹底的な取り組みにもかかわらず,実績としてはまだまだ十分なものとは言えない。とりわけ日本国内においては,野田英夫や石垣栄太郎のように最終的に日本に戻って活躍した画家たちゃ,イサム・ノグチなどのように東海岸で活躍し実績が「逆輸入jされた芸術家たちについては,研究が進みつつあるものの,西海岸を含むその他の米国内で活躍し没した芸術家については,ほとんど知られていないのが現状である。ミキ早川についても,日本国内で一度だけ実作を展示されたことがあるものの,その全貌については明らかにされていない。この稿では,アメリカの美術界と日本人画壇の双方の狭間で忘れられた存在となってしまったミキ早川の芸術をとりあげ,その全貌を出来るかぎり詳らかにし,新たに美術史上の位置付けを行いたい。まず,早川|ミキの日本における紹介の実績を見ていきたい。彼女の名前が,最も早く日本の雑誌に登場するのは寺田竹雄による「野田英夫の回想」(注3)の中である。寺田は,スカラーシップを得て「加州美術学校」(原文のまま。ここでは以下,「カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アート」(注4)と表記する。)に入ってきた野田との出会いについて次のように描写する中で,早川にも触れている。106
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