l点展示されており,これが日本で初めて,また唯一展覧された彼女の作品というこ「一九二九年のことだからもう二十四年も昔である。当時学校には十人余りの日本人学生が居たが,いずれも非常に成績がよく,早川と云う女性はモニターをやっていたし,私もアン・ブレマー・スカラーシップをもらって二年目を迎えていた。それにまた日本人の特待生が加わるので私達は大いに意を強くしていたわけであるJ当校には当時,早川,寺田,野田の他に,猪熊義男,日比松三郎,清水久子(後の日比久子),松原一雄などがいた。すでにこの学校を中心とした日本人の画家によるコミュニティがサンフランシスコには存在したと見られる。中でも早川は活躍を嘱望されていたが,寺田の叙述にその姓だけが登場した後,日本では忘れられることになる。早川が再び日本で紹介されたのは,1995年に開催された「アメリカに生きた日本人画家たち一希望と苦悩の半世紀1896-1945J (東京都庭園美術館他)においてである。本展覧会は,全米日系人博物館の企画によって米国内を巡回した「TheView from Within : Japan巴seAm巴ricanArt from the Interment Camps 1942-1945」(注5)を基礎としながらも,清水登之,野田英夫,石垣栄太郎など日本国内でよく知られている画家や,さらに新たに東京都庭園美術館によって「発見Jされた画家たちを追加し,日系人画家の全貌に迫ろうとした画期的な展覧会である。日本人芸術家のコミュニティが,アメリカ中部・東部,シアトル周辺,カルフォルニア,ニューヨーク周辺,強制収容所内と5つのセクションに分けて体系的に紹介され,展覧会としては米国内の日本人画壇に初めて焦点をあてたものとなっている。当展図録中の岡部昌幸氏のテキスト(注6)では「カルフォルニアに定住した美術家の中で,戦前・戦後を通じてアメリカ社会でもっとも知られていたのは小圃千浦と早川光子(ミキ早川)であった」とされている。また,ここでは,早川作の油彩画がとになる。おおぶりな平面分割によって捉えられた肖像画〈アフリカ系アメリカ人の肖像〉〔図l〕は,早川がカリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アートに学んでいた頃に描かれたものである。こうしたふたつの例外を含めても,早川の存在は,日本においてはほぼ認知されてこなかったと言っていいだろう。アメリカにおいても,紹介の事情はあまりかわらない。日本人女性であったために「重要でありながらも,その資料が失われている画家J(注7)とされ,カリフォルニアの女性画家の記述の中には含まれてはいるものの(注8),記述は極めて限定的であ-107-
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