鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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り,ミキ早川に関する総合的な研究実績は存在していない。3 絵画を志すまでミキ早川は,明治32年(1899),北海道芽室町で生まれた(注9)。父親のマン(漢字名不明)は,キリスト教の牧師で,歴史の教師を勤めたこともあったらしい学問のある父であった。母親のチヨ(同不明,千代?)は札幌生まれで,マンとはかなり年の差があった。光子(ミキ)が生まれた時は,マン35歳,チヨ18歳であったから,実に17歳もの年齢差があったのである。マンがどのようにして米国への移民を決意したかは明らかになっていないが,牧師であったことから,本人が選んだ、というよりも教会側の意向であったことが推察される。明治36年(1903)年頃にマンがアメリカに渡り,オークランドの日本人宣教所に居を定めた。さらに,政府が労働移民に対するパスポートの発給を自主的に止め,「呼び寄せ移民」以外の移住を実質的に不可能にした移民法制定の明治41年(1907)の翌年に,チヨとミキを呼び寄せている(注10)。国家聞の緊張が高まる中,おそらくは呼び寄せ移民までも禁止されるようになるであろう近い将来を恐れて,あわてて手元に呼び寄せたのではないだろうか。移民局の記録によると(注11),同年の10月17日に,33歳6カ月のチヨは36ドルの費用と9歳4カ月のミキを伴って,東京から船でサンフランシスコのt也に~Jfoりたことになっている。ミキが長じて絵画を志すようになったのは,1915年頃,彼女が15歳の頃である。画家になりたいという希望を打ち明けて,厳格な父親に反対されたミキは,ついに親元を離れ,絵の道に足を踏み入れることになる。美術学校に通いながら生計を支えるために,窓や床の掃除をしたり,服飾デザインをしたという(注12)。その後,オークランド美術工芸大学で奨学金を得る。1922年に同校を卒業すると,翌年から,サンフランシスコに居を移し,再び奨学金を得ながらカリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アートに学び始める。この学校が日本人画家を含む他の画家たちとの主な交流の場となり,またこの学校を拠点とするサンフランシスコ美術協会展が,戦前の早川の中心的な発表の舞台となった。4 サンフランシスコの日系人画家たちとミキ早川1921年4月,サンフランシスコには東西芸術協会(Eastand West Art Society)が発足108

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