鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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する。小圃千浦と日比松三郎が中心となって,「東洋美術と西洋美術の研究を目指した」(注目)この団体の設立は,日本人芸術家たちがひとつの群として組織化できるだけの数が揃ってきたという事実を示している。1922年11月17日から12月16日までサンフランシスコ近代美術館で開催された第二回展の目録には,前述の二人の他に,松原一雄,上山鳥城男,上野赤春,T.ヒコヤマ,Y.コトク,M.ミヨシ,K.中西,K.田中,などの日本人名が散見できる。またこの事業は包括的なプログラムで,琴や日本の歌曲を含んだ音楽会や,菊花展,茶会などが同時に行われていた。いずれにせよ,1920年代に入って,サンフランシスコに日系入社会に見合った日系人画壇と呼ぴ得るものが存在しはじめたと考えてよいであろう。1910年代以前にも犬飼恭平,石垣栄太郎,平賀亀佑など優れた画家が当地にいて活躍したり,清水登之がシアトルからパナマ・フェアに出品したりしていたが,いずれも独立した点としての活動であったり,20年代にはあきらかにその質と量を増やしている。1920年代に活動した日本人画家のうち,特に良く知られている名前をあげてみると,まず野田英夫(ベンジャミン・ノダ)は2世としてカルフォルニアに生まれ1931年にニューヨークに移住するまでここで活動を行ったし,寺田竹雄(エドワード・テラダ)は1922年の渡米ののち,1935年までをサンフランシスコで過ごした。ヘンリー・杉本(杉本謙)は1928年にカリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アートに学んだ。またこうした日本でよく知られている画家たちと,米国で知られている画家たちとはかなりのずれがある。米国内で評価が高いのはむしろ,小圃千浦など同地にある程度の期間以上とどまり,現地との関わりをもった画家たちである。米国唯一の日本画家と言われた千浦は1903年の渡米以降一貫してサンフランシスコで活動し,1932年にはついにカリフォルニア大学パークレー校の美術学科講師となっている。また,このころ,猪熊義雄,山崎近道,日比久子,許山孝一,鈴木盛,信行浄雄,太田秋子,岡本弥次郎などの名前が,「桑港日本人芸術協会展」「素人玄人合同絵画展覧会」などの展覧会図録に登場する(注14)。そうした展覧会に,渡辺虎次郎が出品するなどロサンゼルス在住者が多く出品したり,上山鳥城男,上野赤春らがロサンゼルスに創立した「赫土杜Jの目録をサンフランシスコの小園千浦が持っていたりしたことからも(注15),この2都市の日本人画家たちには盛んな交流関係があり,総じて西海岸の日系人画壇を形成していたことが予測される。芹j畢末雄などロサンゼルスで活躍した画家たちも,決して,サンフランシスコとは無縁に独立して存在していたわけではなかった-109-

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