だろう。さらに,そうした広い地域に渡る「日本人画壇」は決して日系人だけに閉じられていたものではなく,現地一般の美術界との交流を熱心に求め,実践していたのである。こうした状況下で,早川は,現地の美術界で認められることを第一義としながらも,自らの出自に根差した交流にも励んだ。中でも早川との関わりで重要なのが,日比松三郎(ジョージ・ヒピ)である。明治19年(1886)生まれの松三郎は,明治39年(1906)に渡米し,まずはシアトルに渡るが,1919年にサンフランシスコに移って以降,第2次世界大戦を迎えて強制収容されるまで同地で活動する。東西芸術協会の創立に参加するなど,「画壇jを牽引していく半ば指導的立場にあった。ミキ早川も大きく影響を受けたが,それは芸術的な側面ばかりではなく,松三郎と一時的な恋愛関係にあったのではないかと推測されている(注16)。二人は,1921年頃,カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アートで同じクラスを取っている。在席簿には,松三郎の名前が,1921年から1923年の11月までている。ミキ早川が在籍したのは,1921年からであり,1923年の11月,松三郎がいなくなった月に名前が消え,翌年の2月に復活している。空白の聞に何があったのかは不明だが,二人で一旦学校を辞しているのは確かなようである。その後は,早川だけがそれまでと同様に,静物画や銅版のクラスを織り交ぜつつ,主に人物画と写生のクラスを欠席することなく取っている。こうした事実は松三郎とミキ早川の親密さを物語っていよう。学生要覧に名前は見当たらなかったものの,松三郎はカリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アートで指導していたという記述もあり(注17),正式な学生ではなくともなんらかの形で同校には出入りをしていたと思われる。1930年には,同じく同校の学生であった清水久子と結婚している。その後は,しかしながらミキ早川が「日本人画壇Jとの交流に積極的に励んだという言己述は見当たらない。5 ミキ早川の戦前期の作品ミキ早JI!は1929年までカリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アートに在し,アート・アニュアルを中心に様々な作品を発表している。その頃の作品,前述の〈アフリカ系アメリカ人の肖像>(1926年)では,いくつかの面を組み合わせて行くよ110
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