がらも,西海岸風の明るい彩色,グラント・ウッド(1892〜1941)にも見られるような形態の周囲に柔らかに回り込んでいく素朴派的陰影によって,アメリカン・モダニズムの過渡期の状況を物語る作風にもなっている。1935年のサンフランシスコ・アート・アニュアルに出品された当作は,戦前期の彼女の代表作と言えよう。モントレーに居を移した1930年代は,オークランド・アートギャラリーでのサンフランシスコ美術協会展に加え,他での発表機会も多くなり,モントレー・フェア,金門橋国際博覧会などで賞を受けたりと,旺盛な活動ぶりを見せている。戦前期に確立された作風は,そのまま戦後期へと引き継がれる。1941年12月7日の真珠湾攻撃による日米開戦は,アメリカ圏内の日系人たちに大きな影響を及ぼした。何より高まりつつあった日系人排斥運動に決定的な動機付けを与えた。日系人たちの多くがアメリカ人として生活している中,彼らの出自が日本にあるということを唯一の根拠として,日系人たちの強制収容がはじまったのである。1942年3月から5月にかけて,西海岸在住の日系人11万人余は,タンファラン・トパズ,サンタフェ,マンザナー,ハートマウンテン,ジェローム,プヤルプ,サンタアニータ,ミニドカ,トウールレイク,ポストンなど,深部の砂漠地帯につくられた10カ所のリロケーション・センターに分散して送り込まれた。退去命令がでると,立ち退き者は,48時間から数週間のうちに財産を処分し,スーツケース2つまでに持ち込み手荷物をまとめなけらばならなかった。その中には,最低限の身の回りの品々だけで手一杯で,到底それまで制作した作品を含むことができず,戦前期の日系人の殆どの作品や展覧会記録など資料が不幸にも失われ,調査の進行を難しくしている。ミキ早川も,自身の荷物を処分し,1942年にサンタフェの強制収容所に収容されたことになっている(注19)。しかしながら,彼女がいたことになっている収容所サンタフェ・リロケーションセンターは,居留外国人のみを厳密に対象とした収容所であり,市民権を得た日本人や日系人,その家族が収容される場所ではなかった。ミキ早川がここにいたかどうかは極めて疑わしい(注20)。芹j畢末雄とその家族が収容を避けてシカゴに移ったように,幾人かの日系人には,排日感情の強力な西海岸を避けて,中部を中心とした他の土地に移住する機会が与えられた。おそらくは,早川もこの機会を捉え,単にニューメキシコ州サンタフェに移6 ミキ早川lは強制収容されたか
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