鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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住したのではないだろうか(注21)。ニューメキシコには,ジョージア・オキーフ(1887〜1987)や早川が奇文愛したブルーア・J.0・ノードフェルド(1878〜1955)などが活躍した実績があり,芸術的にも熱気のこもった場所であった。この土地柄を自主的に選んだことも決して不自然なことではない。この仮説を裏付ける調査はまだまだ\必要だが,少なくともサンタフェ・リロケーションセンターに収容されたという記述は訂正されるべきであろう。7 サンタフェでの活動サンタフェに移住して以後の早川は,制作を中心とした穏やかな日々を送ったようである。ジョン・スローン(1871〜1951)など5名の新進画家が属した地元の芸術家集団のメンバーとなり,彼らとの交流の中から,自らの絵画を成熟させていった。1947年には画家仲間のひとりであったプレストン・マクロセンと結婚。40代後半の遅い結婚だが,画家仲間をよく家に招き彼女の手料理で交流を深めたり,夫とともにスケッチ旅行に出かけたりと,順調で幸せな結婚生活であったようだ。しかしながら,わずか6年の結婚生活の後,1953年に癌によって53歳の若さでこの世を去っている。また,子供は持たなかったようであり,マクロセンの死後,彼女の実績と資料を引き継いだものはいない。戦後にミキ早川の制作した作品は,その多くが未だサンタフェにあることが予想されているが,サンフランシスコ,ロサンゼルスでの資料の渉猟に努めた今回の調査では,実作品の所在をあまり明らかにすることができなかった(注22)。彼女の没後,1985年にサンタフェ・イースト・ギャラリー(注23)において,大規模な回顧展が開催されているが,戦後の作品については,当時の記録(注24)に残されたいくつかの図版に沿って見ていきたい。早川は,作品に年号を付さないために,戦前作(1920〜30年代)と戦後作(1940〜50年代)を区分することは,実質的に困難である。ここでは,一応本展出品作のすべてが戦後作であるという仮定のもとで進めていきたいが,中には戦前作ではないか,と思われる作品もある。〈家への手紙〉〔図6〕には,あからさまにキュピスムの実験のあとがあらわれている。モデルとなった男の足の組み方,コートの搬や裾,ネクタイ,髪の分け目などの他に,男が座る椅子や背景にも厳しい直線と抑えた色彩による展開が見られる。様々な実験を繰り返していた1920年代前半の作品,空間把握の方法

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