鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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。7)(6)と同資料,P.165同アジア系アメリカ人美術研究家のマイケル・ブラウン氏の研究をもとにした見解。全米日系人博物館で日比久子の優れた展覧会『日比久子:投影のプロセス(AProcess of Reflection : Painting by Hisako 印刷)』を企画したクリスティーン・キム氏からもこれを支持する意見をもらった。同PatriciaTrenton, Independent Sprits, Women Pαinters of the American West, 1890-1945, Autry Museum of Western Heritage, 1995では1937年作とされているが,1935年のサンフランシスコ美術協会展に同タイトルの作品が出品されている。(19) (2)および(6)の資料群。ン・ヒガ氏も疑問を投げかけている。その根拠としてサンフランシスコ美術協会の住所変更届をあげている。(刈マリアン・ヨシキ・コヴィニック氏の意見。凶戦後ミキ早川が関わりをもったニューメキシコ美術館には下記の2作品が所蔵されているが,その他の作品は分散してしまっている。1. {Untitles (sitting nud巴)〉1928年,2.{One Afternoon) 1940年。同サンタフェのEastGalleryはすでに業務を停止している。仰)ωと同資料。。EllenBradbury, Two Women Who Went Thier Own Way, Art Market 同)収容所内でも多くの日本人画家が活動を行い,収容所単位で「画壇jを形成していたことは,(5)および(6)の前掲資料に詳しいが,1920年代とは比べものにならないくらい限定的なものだ、った。間1990年代から全米各地においてこうした試みは盛んになってきているが,西海岸では特にサンフランシスコ州立大学(SanFrancisco State University)でもアジア系アメリカ人に焦点をあわせたプロジェクトがはじめられている。WithNew Eyes : Toward an Asian American Art Histry in the West, San Francisco State, 1995は,その優れた成果となっている。。。サンタフェ・リロケーションセンターにミキ早川がいたことについては,カリ

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