代住持奥田行朗老大師が平成十一年二月四日に遷化されたことは痛恨の極みである。ここに生前中のご教示とご接化に改めて深謝し,哀悼の意を表すると共に本調査研究成果報告書を仏前に樺げご冥福を祈るものである。(一)宗教心豊かな我が国,及び国民の深い祈りの対象として尊崇されてきた仏像は,時代という時間の経緯を超えて生きとし生ける人々の心を絶えず魅了し続けてきた。それはいまも大きな変化はない筈である。祈りの美を感じるのはその人生に対する心の深さに比例するものであったからである。苦しみ,疲れた人々の懸命な生の只中で,心を込めた人々の崇高な願いの前で,仏像は造立され,存在し続けてきたのである。〈仏像の歴史は人々の信仰史である〉という理由はここにある。そして,このような仏像が我が国仏教史上で最も多く製作され,礼拝され,人々に救いを与え続けてきた時こそ,江戸時代という歳月であった。うち続く戦乱や飢鐘の時代を生きた人々は,ょうやく浸潤した仏教に救いを求め,その礼拝対象である仏像に過去世の追慕,現世の幸い,来世への往生の願いを込めて祈ってきたのである。彼らの祈りの数ほど仏像の数が増したのは当然で、あった。需要が増えると仏像の量が増し,その製作者たる仏師も多く輩出されていった。当然,その製作方法及びその時間も従来より加速的な進歩を遂げ,この動きは中央ばかりではなく,地方へも流布し,本山,大寺院,末寺院の格差は信仰の前では仏像の優劣を問われないほどになっていたのである。後世,人々がこの時代には全く新しい造像様式を生み出すことがなかったと言及したところで,その時代に生きた人々の信仰を背景とした仏像であれば,彼らにとってそれこそ最も大切な礼拝対象像であったことには違いなかったのである。よって,仏師は,そのような人々の信仰の変遷を敏感に肌で感じながら,彼らの求める仏像を彫ることがその時代的要求として受け止め,彫り生きてきたのである。彼らもまた,時代のそれぞれの信仰の人であったのである。更に,この時代における尊位の多様化は仏師界に思わぬ事態を生むこととなった。それは幕府が行った仏教統制政策によって宗派毎の尊位の繁雑化と,中央及び地方権力者の信仰形態による仏像の量産化が増し,特定の尊位だけが造像されるということは少なくなったものの,逆にこのことは仏師がその状況に対応出来なければ彼らの死活問題にまで発展することを意味していたの2
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