である。彼らが殊更,運慶様某代云々・元祖定朝何代云々,そして,禁中様惣本家大仏師・幕府御用仏師・寺院専属仏師・大名専属仏師と胎内墨書銘・納入物に遺したのは,多くの造像発注に対応し得る著名な仏所に所属し,しかも仏師としての正統性・権威付けを発注者に誇示するなにものでもなかったのである。(二)このような時期の仏教界へ忽然として出現したのが黄葉宗であった。それは,既成の日本禅仏教の伝統意識や修行方法に大きな変革をおよぼし,従来の坐禅・食事方法,朝晩諦経の鳴物・唱法に衝撃を与え,更に,伽藍の建築様式,彫刻の様式美,絵画への美意識などそれぞれ独自の変化をもたらすこととなったのである。承応三年(1654)の隠元禅師の東渡によって,黄柴の禅要が全国的に流通伝播するようになると,我が固と中国の文化交流が最高潮に達した感があった。即ち,黄葉禅の伝来は移入した中国文化の根幹をなすものであり,近世における黄葉宗の最も強い影響下にあった仏像の様式美も,また中国の様式移入という新たな視点で問われなければならない重要な問題である。この意味からも,開祖隠元禅師の仏像観及び彼の造像要求に見事に応え,他方,長い混迷期を生き続けてきた我が国の伝統仏師に大きな影響力をもたらした中国人仏工活道生の存在はあまりに大きいのである。隠元禅師は黄栗山高福寺という大伽藍の造営とその伝播に,幕府より寺領として四百石の寄進を受け,更に,諸役免除の朱印までも賜るという厚遇を得るに至った。諸般に厳しさを増す時代に,黄提宗及び隠元禅師に特倒的とも思われるこの措置は当然既存の仏教界へ大きな波紋を生じさせ,当然のことながら,造仏界にも新たな動きが生み出させる要因が整ったことを予感させるものであった。既に我が国へ渡来していた中国人仏工の多くは,いわゆる華中・華南地方の人々であり,彼らの仏像観は,その同じ出身地である隠元禅師のそれと軌をーにしており,林高龍,呉真君,宣海錦,徐潤陽がその代表である。そして,彼らこそ活道生(1635あった。この四人のほかに活道生が渡来した頃,崇福寺・福済寺において造像活動に従事して方三官,また,『唐通事会所日録』の寛文三年(1663)の条には,福済寺に寓居していた活道生の興福寺造像を手伝った同寺の小僧宗伯,そして,東京都品川の天台宗養玉院釈迦知来像に銘を遣す沼宗仁は,活道生の弟子として彼の造型意匠を知る〜70)の渡来(1660)以前に,長崎にあって活躍していた中国仏像様式の先駆者でも-3-
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