代雪舟筆とされる重要文化財「四季花鳥図」扉風のなかの松葉は,一塊の葉はやや丸く形式的だが一本一本の松葉を線描し写実的だ(注2)。桃山時代の伝永徳筆「花鳥図」扉風の松葉も一本づっの線描だが,手入れのされていない自然に近い情景のなかの松であるのに勇定された松葉に近いものになっている(注3)。江戸時代になると狩野派の画人が描く花鳥山水図や人物画の背景には松の描写がよく見られ,おおむね形式化された松葉の描写が多いけれども,18世紀の狩野派の作品には,葉の一本一本ずつを描き込んだものが散見されるようになるようだ(注4)。秋田蘭画とほぼ同時期といっていい流派の円山四条派の画人たちの作品には松葉の描写が写実的なものが多く見られるようになる。例えば,応挙の「雪松図」扉風,呉春「松下遊鯉図」などに松葉の写実的な描写が見てとれよう(注5)。中国の絵画では18世紀にわが国に滞在しその後の画界に大きな影響を与えた沈南頚とその弟子や係累のいわゆる南頚派の画人が描く松葉は,やはり一本一本の線描で葉の一塊を描いていく方法が多く見られる。こうして,わが国と中国の一部の絵画にみられる松葉の描写を観察してみると,秋田蘭画の画人が描いた写実的な松葉にもっとも近いのが円山四条派のものである。応挙は透視図法を使って眼鏡絵のための絵を描いていることから知れるように,秋田蘭画よりやや早くいわゆる洋風画を手掛けながら,しかし扉風や掛軸の形式のなかでは極端な洋風画の手法は使わず,比較的写生的な新鮮な描写をもって江戸時代後期の最も栄えた画派を形成したのであった。秋田蘭画の作品中の松葉の描写は,西洋の銅版画等からの影響ではなく,南頭派等の写実的な描写からの影響が考えられるのと,もう一つには動植物図譜の隆盛や円山応挙らが手掛けた写生的な描写等から推し量れるように江戸時代中期以降盛んになった写生的描法の流れの中にあったのだと言えるのかもしれない。[小田野直武の初期作品]直武が洋風画を描きはじめる時期をここでは仮に平賀源内が秋田藩角館に来て以降,つまり安永2年(1733)と定めておこう。それでは,これ以前に直武は果たしてどのような絵を描いていたのか。これについてはかつてからいくつかの作品が見いだされ,多様な描き方を直武は示しているのが知られている。狩野派,浮世絵,仏画,中国人物画,花鳥画などと残された作品の数量が少ないわりには,多くの傾向の作画の様子がうかがわれるのである。-129-
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