鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
141/763

(1)「猿を捕らえる鷹の図」紙本着色縦35.0×横71.5小田野直武写生帖に所収しかし,直武の洋風画以前のことについては,角館周辺に絵が上手だという評判があったであろうとか,余技であるとかいわれてきたのだが,遺された初期作品は数少ないとしてもそれぞれの作品の質的な高さとしっかりと著された落款などから推し量って,とても余技ではすまされないものがみられると考えられるのである(注6)。直武には,生地角館の神明杜に奉納された「花下美人図」と大威徳山本尊「大威徳念怒明王図」があるが,前者は18歳,後者は17歳の制作であることが,紀年銘から明らかとなっている。下級武士の倖で17,8歳の武士が,いかに画技の評判が広まっていたとしても他人に頼まれて奉納額に浮世絵風の美人画を描いたり,寺の本尊の図像を依頼されて描いたりすることがあり得るのであろうか。さらに,余技が高じていてもただの武士が,しかも槍術に優れた父をもっ家に生まれた直武が絵の依頼を受けること自体,不思議なことと考えるのが普通ではないであろうか(注7)。そうであれば,直武は絵をもって佐竹家に仕えていたのではないであろうかと考えたくなるのである。前出の神明杜の「花下美人図」には「武田円碩師弟」と墨書がある。武田円碩は佐竹家の御用絵師を務めた家柄で,直武とともに藩主義敦の幕府参勤に際し藩境の院内まで同行し見送ったが,藩主に江戸まで随行するよう命じられたという記録もある(注8)。直武はこの美人図を描いた18歳のころすでに本藩のお抱え絵師に師事していたことも考えられよう。このことからも,むしろ私は直武が絵をもって仕えていたと考える方がごく自然なのではないかと思いたくなるのである。直武が直接仕えていた佐竹北家は佐竹宗家の分家で,直武幼少時の北家当主佐竹義邦は俳諸,短歌など文芸にすぐれ,その子義朗は植物の絵を多く描き,直武とともに洋風画を描いているわけで、ある。このように文芸には理解のあった当主たちは,直武の画才を認め,その才能を生かそうと本格的に絵を学ばせたのではないだろうか。そうでなければ,直武の境遇で独自に本藩の絵師につくことなど考えられないのである(注9)。次に直武の初期作のうち5点をとりあげ,直武が若くして職業的な絵師であったかもしれないという可能性を少しでも引き出せればと願い,個々の内容を詳細に観察してみよう(注10)。〔図13〕この図は直武の写生帖のなかに収められているが写生帖自体は大正年間に角館町130

元のページ  ../index.html#141

このブックを見る