鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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(3)「立美人図」紙本着色縦77.2×横29.3〔図15〕ないはずで、あることなどを考慮に入れると,なおさらこの思いを強くさせるのである。また,落款の「玉川直武画jは,前出写生帖の「猿を捕らえる鷹の図」の生硬な文字に較べると,細い墨線でやわらかな文字となっていて,数段の進歩をみせている。さらに「直武之印j「子有氏」の印章からは,専門の画人による形式を整えた絵であることがはっきりとする。これまで、の説に拠って,安永2年直武25歳ころに洋画の知識を得たとした場合,少なくとも「松に鷹図」は25歳以前の制作であり,そして(1)写生帖の鷹の描写よりは格段に進歩していることや後述する17歳時の制作になる奉納絵額「大威徳明王図jの落款の稚拙な文字と比較すると,これよりも後年の作になると推定され,つまりは20歳を越えてからの作とも思われる。直武は洋風画を描くようになってからも遠景を添えた鷹の図を制作しているのであるが,両図の鷹そのものの描写は大きくは変わっていないのではなかろうか。直武は洋画の知識を得る以前に,もはや相当な描写力を備えつつあったことがわかるのである。直武はこの美人図を肉筆の浮世絵を参考にして描いたと考えられる。着物の袖や裾の太い輪郭線や帯の文様の彩色にやや神経の行き届かない面はみられるが,費髪,顔,手,足の繊細な描写はすでに画人としての技量を身につけていると言っていい。浮世絵美人に特有な切れ長の吊眼を近接してみると,まつげを意識したかのように墨の線をいくつかひいている。これらの線はどちらかと言えば決して繊細とは言えず,やや太く粗野なのである。小さな眼の中にこれほどの墨線を入れたならばすっきりとした切れ長の眼の表現には逆効果になるのだが,直武はあえてまつげを表現しているのである。落款の「源直武筆」は,「武」の字体が洋風画作品に記された字体にやや近づいているようにみえるが,他の「源」「直」「筆」はいまだ若い筆跡とみえ,前出の「松に鷹図」の落款とも大きく違っている。また直武は雅号の次に「画」と書くことが多く,この浮世絵の「筆」は次の(4){乍品の「筆」とともに珍しいのである。印章の「羽陽」の雅号は,「子有Jとともに後年の作に最も多く用いられているが,この美人画の印そのものは他の作に認められていない。遺存する初期作の数が少なく,また初期作とする作品が現れても直武の作と特定するのが困難な状況であることを付け加えておきたし、。132

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