いずれにせよ,直武はこれほどの肉筆の浮世絵を描くのであるから,もはや職業画家の域にいれでも不思議で、はなくなる。私は,あの田原藩武士であり家老職まで上りつめた渡遺畢山が生活のため職業画家としての生活を送っていたことを連想させられるのである。この作品は,明和3年角館の菅沢給人たちが奉納した絵額である。前出の「立美人図」は肉筆の浮世絵を参考にしたものだが,この「花下美人図」は摺物の浮世絵を手本にして試みたものであろう。描かれた当初は艶のある画面であったろうと想像されるが,後世湿気の影響を受けたのか,大きく惨んだ姿が痛ましい。しかし,人物のしなやかな捉えかた,板に彫り込まれた時の細くて強い線描など浮世絵らしい特色が肉筆のこの作からでも十分に伝わってくるのである。画面右下には「源直武筆」とあり「立美人図Jの落款の字句と同じなのだ。左上にはかすれた文字ながら「明和三」の年号が書かれであるのが認められるが,裏面には「武田円碩師弟蘭慶堂直武生年拾八画jとかかれており,明和3年が直武数え年18歳であることから双方の数字が符号するのである。この奉納絵額は,なによりも「武田円碩師弟」という直武自筆のものと考えていいであろう文字が貴重となっている。これら6文字は,彼は画人となるべくして修業していたという感をさらに強くさせてくれる(注11)。(5)「大威徳明王像図J板・着色縦80.0×横67.8(奉納額)〔図17〕この大威徳明王国の画面右下には「願主弥勅院岐寛寄進j,左下には「小田野氏源直武謹拝書(印・蘭慶堂)Jとあり,背面には「明和二乙酉年三月日華園上村,大威徳山念怒明王jの墨書がある。明和二年であるから,前出角館神明杜の「花下美人図」明和三年の前年に描かれていることになる。大威徳明王が,疾走する牛の背に立ち乗って弓矢を射ょうとしている動的な仏画であるが,手本によって描いたとしても17歳の時にこれほど力の入った仏画を描けたということに驚かざるを得ない。次に,落款の語尾に「謹拝書jとあることに感心する。額の寄進者が較寛という僧侶であることやこの明王図が大威徳山という信仰を集めた一山寺院の本尊であることから謹拝書の表現はごくあたりまえのことだが,17歳の直武がたとえ制作時に教示されて記したとしても,余技で描いていた少年武士のなせることではないであろう。奉納の絵額にしかも本尊とされる図像に筆者の署名が許されること自体異例で,佐竹北家家中の間でも(4)「花下美人図」紙本着色縦83.0×横69.2〔図16)-133-
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