(2) 1982年京都国立博物館『花鳥の美』展覧会図録pp.142〜143掲載の図版を参考にし(3) 向上図録pp.172〜173を参考。(4) 1979年東京国立博物館『狩野派の絵画』展覧会図録を参照にした。(5) 1979年文化庁・東京国立博物館『円山四条派絵画展』図録を参考にした。(6) 成瀬不二雄氏著『曙山・直武j(1969年,三彩社)では,直武の初期作品の扱いに(7) この件については(1)の山本丈志氏論文中「6.小田野直武登用の理由jの項から(8) 秋田県立図書館所蔵『須藤茂孟日記』安永7年4月10日条。(9)前出山本論文「6.小田野直武登用の理由」から示唆されたところがある。(11) 山本丈志氏は直武と平賀源内との結び付きのはじまりが「円碩(佐竹家御用絵師,た。ついては,文武に励む直武のく余技〉として捉えられている(pp.11〜13)。教示されたものが多い。また,太田桃介氏は1965年の共著『近世の洋画一一秋田蘭画一一j(明治書房)のなかで,直武は「言い伝えとして八,九歳の頃すでに絵筆をとり,釈迦の浬繋像や摩利支天像を巧みに描いたと伝えられるし,また角館の報身寺の格天井の花鳥の板絵は,ことごとく直武の筆になるものであったと言われる。これらのことを根拠として考えれば,安永2年直武洋画法習得以前の角館における生活は,武家の子としての文武の教育をうけたことは当然のことであるが,絵画を習得する生活が大部分を占めたのであろう」に大いに触発された。同小田野直武の初期作品については,1999年7月発行秋田県立近代美術館『東北の洋風画J展覧会図録所載の拙著「プレ洋風画の検証小田野直武初期作品ノートjを訂正して記述したものである。直武の師)→佐竹曙山(博物的植物写生,佐竹義朗も植物をよく描いている)→源内(本草学,物産)」の人脈のなかにあると論じている。参考文献黒田源次『西洋の影響を受けたる日本書』中外出版株式会社,1923西村貞『日本初期洋画の研究』株式会社全国書房,1945奈良環之助,太田桃介,武塙林太郎『近世の洋画一一秋田蘭画』明治書房,1965成瀬不二雄『東洋美術選書曙山・直武』三彩杜,1969隈元謙次郎監修,太田桃介,武塙林太郎,成瀬不二雄『図録秋田蘭画』三一書房,1974一135-
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