上において極めて重要な仏師である。また,大牟田市倉永の法雲寺十八羅漢像の仏師瀞君亨や博多の聖福寺関帝像仏師僧龍澗は我が国における中国人仏工の系譜として,活道生の跡を継承した我が国の仏師の系譜と一線を画する必要がある。さて,活道生は万治三年(1660)の夏,長崎福済寺住持蓮謙禅師に招かれ子の五十三番船で渡来した。彼の招致理由には,やはり隠元禅師の仏像観が大いに働いたと考えられている。即ち,我が国に留まる決意をした隠元禅師は異国の地に祖国のそれと同じ名称の黄柴山高福寺の建立が許可された時点で,堂宇一々に安置する仏像はやはり,中国様式のものと考えていた筈である。そのような仏像を製作できる仏師,隠元禅師の仏像観を満足させ得る仏師を彼は求めたのである。この報は直ちに黄葉僧を始めとして長崎の中国人仏工,既に我が国で活躍していた華中・華南出身の貿易業者等のもとに届けられた。彼らが掌握していた活道生の仏師としての力量こそが,隠元禅師の仏像観を満足させ得るものと確信したのである。ここに支那印官活道生は黄葉山寓福寺専属仏師として選考されたのであった。勿論,隠元禅師は我が国内でも仏師を探していた。しかし,国内の仏像拝観の旅を終えた後,彼は明言している。「その仏像,はなはだ如法ならず」と。俗眼を喜ばすに過ぎなかった江戸時代の仏像に厳しい評価を下した隠元禅師は,自らの仏像観を満足させ得る仏工を求めたのは当然のことであった。明末j青初様式の仏像こそ,隠元禅師の仏像観そのものであったからである。寛文二年(1662)諸堂宇が建立され始めた黄葉山寓福寺において,隠元禅師等の仏像観を具現化させ得る仏師としていよいよ市道生が登場する。彼によって次々と見事に造像されていく尊像に接した禅師等は,繰り返し最大の賛美を贈り続けたのである。この活道生が隠元禅師の直接的指導の下で製作する仏像は,その像容の特異性と,形相の写実的迫真性により,怠惰な風潮の中にあって新しい時代様式を生み出す機運が欠如していた我が国の造仏界へ強い影響を与えることとなったのである。江戸時代の伝統仏師たちにとって,この黄葉開宗は大事件であった。隠元禅師及び黄葉僧の仏像観を見事に彫出してゆく中国人仏工活道生の存在は衝撃的であった。中央造仏界の近郊の宇治の地に展開されている黄葉山寓福寺大造像事業の主導的役割を担う中国人仏工の諸尊像は彼らが築き上げてきた仏像観を変更することこそ時代の趨勢であることを認知させたのである。ただ,この活道生の我が固における造像期間は渡来後僅か五年間にも満たないもの-4-
元のページ ../index.html#15