鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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⑪三上誠一ーその作品の展開と現代的な意味合いについて一一研究者:東京国立近代美術館美術課主任研究官都築千重子山崎隆(1916〜),三上誠(1919〜1972),大野秀隆(1922〜),星野異吾(1923市立絵画専門学校(のち京都市立美術専門学校,現京都市立芸術大学)出身の若き日本画家たちを中心に京都で結成されたパンリアル美術協会(注I,以後パンリアルと略す)は,第二次世界大戦直後に現われた様々な日本画変革への動きの中でも,最も徹底した態度で既存の日本画壇の体制に反旗を翻し,日本画の表現の枠を突き破ろうとした研究グループとして知られている。三上誠はその結成に関わった最も重要なメンバーの一人であり,その理論的支柱を作り上げる上でも中心的役割を担った。本稿ではこの三上に焦点をあて,初期から晩年に至るその作品の表現内容や技法及びその展開を吟味し直すとともに,その目指したところの意味をあらためて検証しようとするものである。1 パンリアル美術協会結成の目的と初期の画風形成「曳光は,轟き,慣ちた。/フォーヴ,ダダ,シュール,アブストレー...・H・−・/一切のエコールが砕け,今怒競と暗黒の渦まく巷で,塞術は明日の蒼空を掴もうとみもだえている。/吾々は日本董壇の退嬰的アナクロニズムに封してこ冶に宣言する。/眼玉を扶りとれ。四墨半の陰影にかすんだ視覚をすて、,社曾の現賓を凝視する知性と,意慾に燃えた目を養おう」という過激な言葉で始まるパンリアル宣言は,1949年5月14日から19日まで藤井大丸で開催された第1回パンリアル展目録に掲載されたもので,三上が草案を作成し,当時京都大学学生であった清水純ーが宣言文としての効果をあげるべく手を入れたものである。また清水の名を借り三上が著した「日本画と伝統」という記事が5月17日付の『夕刊京都』に掲載され,現況の日本画に対する若き日本画家たちの立場と意見を表明して社会の注目を浴びることとなった。ここで三上らは,官僚的な公募展や塾制度など古き因襲が厳然と幅を利かしている日本画壇の機構や封建的で古い体質を強く否定するとともに,社会や現実から遊離し,花鳥風月や感傷性に安住しているその表現に疑問を投げかけ,より現実的な視座からモチーフを拡大し,穆彩表現の可能性を引き出そうとするべきだと主張した。〜1997),下村良之介(1923〜1998),不動茂弥(1928〜)らによって1949年に京都142

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