結成後まもない頃のパンリアルの作品は,おおむね二種類の傾向に分けられる。まず第l回展出品の三上の〈器官の露呈〉,下村の〈祭〉,星野の〈崩壊の群〉など,半ば抽象化された形態や人体がうねり,もだえ,からみあって画面を埋め尽くすような表現。もう一つは,星野の〈巣>(1949年,第2,3回展),不動の〈机上の対話>(1950 年,第4回展)など時に遠い地平線をのぞみながら,荒涼とした風景の中に具象的な事物や人物が描きこまれ,時代の重苦しさを反映した象徴的・幻想的な作品である。概して第二次大戦後の混乱と荒廃の入り混じった現実を制作の起点にし,西洋のキュピスムやシュルレアリスムの影響を取り込んで、,日本画材を用いつつ従来の「日本画」の枠を破ろうとする,ほとんど「油絵j的な作品といえるだろう。そしてこうした対象の単純化(デフォルマシオン)や幾何学的な解体,内的世界の投影(視覚化)といった20世紀的な造形感覚をもっ型破りな日本画を創造し得た背景には,ホルマリン塗布という工程のメンバー聞における共有があった。地塗りの胡粉にホルマリンを塗布し,勝を耐水性に硬化させて硬質な画面をつくるというこの技法は,歴程美術協会出身の山崎隆がパンリアルのメンバーに紹介し広められた(注2)。この方法の採用により,従来の日本画では不自由であった描き直しが可能になったばかりでなく,雑巾で絵具を拭き取る等の自由な描画もでき,これまでの制約から大きく解き放たれることができたのである。そういう意味で、はパンリアルの場合,常に「何を描くか」と「どのように描くかJということは同1蒙のウェイトを占めていたといえる。ではこうした初期の作品形成の背後にはいったい何があったのだろうか,この時期はメンバ一間でかなりの点で共通の認識もあったと考えられるので,他のメンバーからの証言も参照しつつ,三上について中心的に検討してみたい。三上誠は福井県出身で,京都絵専日本画科を1944年夏に卒業した後,同校に副手として残るほど卓越した描写力を示していた。実際,今回の調査で実見した初期の素描や下絵類には,ギリシア・ローマ期の人物像風のスケッチ,人物の手足の動きや鳥など特徴を鋭く捉え,三次元的に把握された西洋画的な素描が数多く含まれており,優れたデッサン力を物語っていた。もともと三上は東京美術学校油画科を目指し油絵を学んだという経歴の持ち主であり,油絵的な対象把握やデッサン力の研錆というものがかなり早い時期から三上の基礎を形成していた。また下村や不動の証言にもあるように,戦争美術展等で油絵と日本画を並列的に見比べた折に,日本画の表現力の弱さ,迫真性や迫力のなさを痛感したことも,日本画の表現のあり方に対する不信感をつの-143-
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