鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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らせ,素描力や構成力の確保の必要性を感じさせる一因になったであろう(注3)。さらに先輩格の三上が参照したか否かの確証はないが,不動や星野は学生時代,当時教授であった洋画家黒田重太郎(1887〜1970)の構図の講義を受講しており,非常に中身の濃かったこの講義と黒田の著書『構図の研究』には,彼らの作品の構図を練る上で大いに教えられるところがあったという(注4)。とりわけパンリアル初期の作品群に大きな影響力をもったのは,新古典主義時代以降のピカソやダリらシュルレアリスト達の,つまり20世紀初頭の西洋の理知的な造形思考であった。こうした西洋の美術潮流は,実際には戦前既に1920〜30年代に日本に紹介され,その影響下に前衛的な作品が生み出されていたが,それは洋画の世界のことであり,日本画の世界では前例らしい前例はなかった。戦時下では欧米の文化や前衛美術は排除されるか失速させられ,その代わりに伝統的な文化が優遇される状況が続き,それに対する批判が敗戦後の「日本画滅亡論」等へとつながっていく。だからこそ戦後,海外への門戸が再び聞かれた時,こうした戦中戦後を生きた彼ら若き日本画家たちは,戦時中の思想的抑圧と温存されてきた日本画壇の両方に対する反動となって,キュピスム,シュルレアリスムの摂取へと向かっていったのであった。何よりも戦争直後の混沌とした時代に不条理な社会的現実と向かい合わねばならなかった彼らの制作上の欲求を満たす上で,きれいごとを描く現実離れした従来の日本画のモチーフも技法も全く参照するに足りなかったのである。しかし一方で、こうした初期の作品群は,福沢一郎(1898〜1992)が評したように,日本画材で抽象的もしくは超現実主義的な表現を持ち込み,現実に立脚した新しい表現を目指すという目新しい要素があるにせよ,ある意味で洋画の追従として受け取られでも仕方がない側面を有しており(注5),そうした問題点の克服のため,彼らはモチーフと技術の両方を再検討する必要性に迫られていた。そしてそれが続く1950年から60年代にかけての様々な実験と冒険の課題となっていく。結核が悪化する前に描かれ,三上自身,代表作のーっと自認していた初期の大作{F市蔓茶羅〉を見てみよう。青く澄み渡った空には,高野山の〈阿弥陀聖衆来迎図〉(平安時代後期)に想を得たとされる瑞雲がたなびき,抽象形態とともに写実的な老夫婦の顔や天使風の少女の上半身,西洋風の街並や椿の花などが配され,画面上方には雑2 初期の代表作{F市蔓茶羅>(1950年)〔図l〕-144-

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