ルの精神を体現したような様々な要素が集約された作品といえる。1951年から1952年にかけて,肺結核の病状が悪化した三上は京都病院に入院し,4回の胸部手術を受けて合計11本もの肋骨を切除した。1952年8月に療養をかねて郷里の福井に帰郷し定住し,しばらく制作を中断した後,1954年頃に制作を再開し翌年のかい合う心境と健康への希求,田舎に生きる思いと都会への憧れ,自分の身体の状態が,苛立ちと悲しみや憂欝とを混じえながら綴られている。またこの頃,そうした闘病生活や精神状態を反映してか,黙示録的な主題とシュルレアリスム風の空間をもち,暗く荒れ狂ったように拡がる雨雲もしくはキノコ雲と機械のように変形され歪められた人体(しばしば胸に穴があいている)等が鋭い線描で描かれた素描が制作されている。闘病のため制作を中断する聞に美術雑誌や画集なと守に眼を通す機会が多かったのであろう,それらには西洋の影響が濃厚である。〈地獄>(1954年)〔図2〕では,明らかに西洋由来の主題である礁刑図やケンタウロス風の半人半獣のモチーフを扱っており,苦しみに歪んだ表情,大きく聞かれ曲がった手,痩せて骨と皮だけの身体等の表現主義的な表現は,グリューネヴアルト(c.1470/75〜1528)の〈イーゼンハイム祭壇画>(1512〜16年頃)のそれを思い起こさせる。実はピカソもこのグリューネヴアルトの疎刑図に負って疎刑図を幾っか残しており,日本の雑誌に原画とともに紹介されていることから,こうした図版がこの素描の霊感源となった可能性を指摘できる(注9)。これらの素描や〈化石>(1957年)〔図3〕等1954〜1958年頃の作品の背景には手術台の上に繋がれ,自由を奪われて肋骨を切除された三上自身の体験があり,ピカソの{3人の踊り子>(1925年)のような引き裂かれた人物像に通じる表現世界があって,切り聞かれた身体とそれに伴う苦痛,不安や孤独,恐怖等の精神的な叫びが,ヲ|っ張られ,分断され,重なり合い,結び付く半抽象的な形態によって,そして時に繊細で鋭く,時に太く強い表情豊かな線描によってイメージ化されている。短い分節化された並行線を伴う輪郭線,力が込められた手足や紺子のような形,筋状もしくは同心円状に走る線といった特徴的な表現要素,そして人体の各器官の解体となって抽象化への傾向を見せるこれらの作品群は,同時に砂状の粒子の混入,油性インクの併用による黒娘の強調,蝋の上からのスクラッチ,版画的な効果の適用(ヲ|っ掻いて窪んだところに3 抽象化とマチエールの冒険第1回パンリアル東京展で作品発表を再開する。この聞の日記や詩には孤独,死と向146
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