絵具をのせたり,にじんだ線を使う等)といった物質感(マチエール)や表現効果をかなり意識した試みの場ともなっている。さらに続く1959年頃からはインクのにじみを利用した作品と並んで,抽象表現主義風のドリッピング,荒縄や木片,布の貼付を試みた〈断層化石(B)}(1959年)〔図4〕のような作品,航空写真のように街を見下ろしたようなイメージをダンボールや木片等で、作った作品など,物質性,触覚性を喚起するレリーフ状のコラージュ作品が生まれた。こうした作品の発想源や材料は,蝋染めや版画,郷里近くで得られる良質の和紙から身近な板切れに至るまで,殆ど身の回りの技法や素材が提供しているが,ちょうど日本ではアンフォルメル旋風が吹き荒れていた時期にあたり,形態を描くのではなく直接的に形態を形造ろうとする点,時に混沌として不定形で流動的なフォルムから成る点など,明らかにこうした同時代の美術動向に呼応したものといえる。だがこれらが一部で前衛美術家としての三上の評価につながった時,三上自身は「日本画の作品,日本画をこれに決めて再出発。PRの出発の精神にかえってO横え動き出し過ぎた。他の材料の試験はもういいだろう。自分本来の仕事にかえるべきだろうJ(注目)と書き記し再び「日本画Jという土俵に戻ろうと決意する。胸部の成形手術後も思ったように健康が回復せず,西洋医学への不信の念がつのった三上は,誠灸術や漢方治療といった東洋医学に救いを求めるようになるが,それとともに画面における余白や平面性といった伝統的要素の比重が増し,経絡図に想、を得た人体図の登場,日めくり(陰暦の象徴)の貼付,輪廻思想、にも通じる同心円の採用など東洋的な世界観や宗教観が顕著に現われる。そして東洋医学が意外にも科学的実証性を伴っていることを発見して驚き,西洋的な認識法(太陽暦,アラビア数字,西洋医学,臓器分析など)と東洋的な認識法(太陰暦,十二支,東洋医学,鏑灸術など)の重複部分,さらには両者の綜合に自分の求めるべき場所があるとの確信を強めていく(注11)。こうした流れの中で1966年頃から大小の幾何学的な円,経絡図風人体,そして妻昌子の描く立体裁断図を応用した幾何学的図形等から組み立てられる一連の記号的で図式絵画風の作品を制作するようになった。〈灸点万華鏡(経)1 > (1966年)〔図5〕では倒立する人体のまわりを大きな同心円が取り巻いて,ゆっくりと絶え間なく流転しているかのように見える。同心円の中に4 「灸点万華鏡」から「機構の生理」シリーズへ晩年の三上誠-147-
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