であった。その大半は寛文二年(1662)から同五年(1665)の黄葉山高福寺と長崎唐三ケ寺に残していた造像活動に集中し,文献資料の中では改めてそれ以外の寺院の造仏に従事したという記載はない。端的に表現するならば,彼の弟子という沼宗仁以外にその技法を継承した中国人仏工はいなかったのである。この意味からも,彼の遺した仏像様式が,後世,〈黄葉仏像様式〉と呼称、され,近世の仏像彫刻史を彩る時代様式として注目されるようになったのは,機に臨み変に応じた我が国造仏界の伝統仏師集団及び分派仏師たちの存在があったからである。自らの仏像観を変更せざるを得ないという葛藤の中から選択した鋭敏な感’性を持った我が国の仏師はここに黄葉仏像様式という全く新しい血が通った祈りの美を現出させたのである。筆者が最も強調したい点はここにある。(三)彼らの個々の造像事例とその調査報告は後日に譲るとして,本文では,『鹿島美術財団』の助成を受けて実測調査し得た幾つかの新知見及び、その成果について私見を加えながら考察したい。因みに,ここでく黄葉仏像様式〉を語る場合,延宝二,三年(1674,5)造立の福岡福厳寺に現存する釈迦三尊像中尊釈迦知来坐像,阿難尊者立像,迦葉尊者立像,観音菩薩坐像,達磨大師坐像,章駄天立像,四天王立像,そして開山和尚坐像という諸尊像を基準として考察する。それは本寺諸尊像の製作者が活道生の明末清初様式をいち早く時代様式として継承した後の京七条仏所二十六代仏師左京法印康祐であったことと,その彼が近世における黄緊仏像様式の展開に大きく寄与したためである。また,本寺諸尊像は典型的な本様式の尊位・像容を明示するものであり,この意味から,近世美術史並びに仏像彫刻研究にとって時代の造型意匠と製作者の造像技量などの基準となり得るからである。以下,その一部を列挙する。①康祐造立の福厳寺釈迦如来坐像と様式的に類似性を有している例として,佐賀普明寺像・玉牽寺像・星厳寺像,福岡円鏡寺像,大阪宝泉寺像,滋賀正瑞寺像・胎蔵寺像・永明寺像,東京弘福寺像・洞雲寺像,群馬宝林寺像,青森薬師寺像,宮城万寿寺像などを挙げることが出来る。仏師は異なるものの彼の像容が全国的に支持されていたことを物語る好例ではあるまいか。②佐賀普明寺釈迦如来坐像,阿難・迦葉両尊者像は,寺伝によると延宝五年(1677),5
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