日記に作品のことをコンポジションと記す三上にとっては,筆で描くことへのこだわりはあまりなく,むしろどう作り構成するかという作画が重要であった。三上らがそもそも影響を受けたのが理知的・合理的なキュピスムと人間の心の無意識や不条理に働きかけるシュルレアリスムとの混交であること自体矛盾を含むことからもわかるように,特に1960年代半ばまでの時期には種々のことに挑戦し模索する中で,往々にして半ば無意識的に互いに矛盾する要素を包含していた。しかし1965年頃から実験性が控えめになるにつれ,画面はもっと意識的に構成され,合理と非合理,無機的形象と有機的形象,西洋と東洋といった相反する要素の共存も意図的に行われるようになった。一方,現実との関わりという点では,政治や社会との接点が感じられるのはせいぜい戦災後の風景({F市長茶羅〉)までで,その後は自己の置かれた切迫した現実や精神状況への内省から,人体を対象化し,「生jや存在そのものの形象化へと向かっていく。三上に最も影響を与えたピカソが,シュルレアリスムに最も接近した1920〜30年代にかけての作品でありまたマチエール実験期に触発されたであろうアンフォルメルや抽象表現主義にしても,その源泉をたどるとオートマテイスム等のシュルレアリスムの論理に行きあたることを考えると,こうした合理と非合理の混在とその絡み合い,多様な要素の包含自体,実は三上に限らず20世紀的な美術の有りようだったのではないかと思われる。科学技術の発展に伴い合理化が推し進められた20世紀は,同時にそれに対する抵抗も顕著に現われ,非合理的な世界などが見直されるとともに,既成の概念や枠を破る試みが積極的に行われた時代であった。第二次大戦後,効率化が加速し,消費社会,情報化社会が到来する一方で,「個」の存在感が薄れることへの不安,自然への回帰を求める心,あるいは合理性や科学だけで解明できない精神や神秘の世界への関心はむしろ強まりつつある。敗戦後急速な復興を成し遂げ,高度経済成長期へと突き進んだ日本でも同様である。そもそもハイカラで西洋志向,都会志向であった三上が病のために,緩やかに近代化が進行し,昔ながらの風習も残る福井での生活を余儀なくされた当初は不安と失望のさなかにあったに違いない。しかし長引く闘病生活と東洋医学への傾倒は,しだいに己の現実や運命の諦観を促し,旧暦や干支,神宮のお払い等が現代生活と共存する,より複雑な重層構造を持つ日本の有りょうへと眼を向けさせることになった。もともと合理と非合理がせめぎあっていた自らの造形的な探究と重ね合わせるかのように,矛盾を包含する現代世界を,日本的な重層構-149-
元のページ ../index.html#160