注(1)厳密には1948年3月に山崎や三上,陶芸家の八木一夫(1918〜),鈴木治(1926〜 )ら8名によりパンリアルが結成された。パンは「汎J,リアルはリアリズムJ士三五小口口口造をむしろ肯定的に受け入れ,そうした対立分子を互いに排除し合うものとしてではなく,共存し得るものとしてその重複や綜合を積極的に企て,同時に見失われがちな個や生や存在を問題にし続けることで,生の奥底にある神秘に立ち入ろうとしたのである。その際,彼は決して感情移入的に行わず,あくまでも冷静に客観的に人体を,生を見つめ続け,線描や形態,構成や質感などの造形的な探究と組み合わせて,個から出発しつつも普遍性をもっ造形世界へ,そして独特の象徴的・宇宙論的世界へと昇華させようとした。同時代的な世界の美術動向に通じる実験的精神を持ち合わせつつも,三上が「日本画(膝彩,岩絵具)Jにこだわったのはいったいなぜだろうか。それは案外,単に多種多様な前衛芸術に飲み込まれ,新しさや革新性の意味合いが薄れるのを恐れたためだったのかもしれない。しかし若き時代に敗戦を経験し,その重い現実を前に,地から浮いた花鳥風月的世界や旧態依然たる日本画壇への強い懐疑心と嫌悪感を心身共に深く刻み込んだ三上らにとって,誰よりもまず意識し闘う相手がそこにあり,パンリアルの精神が支えであり続けたとは言えないだろうか。三上は日本画材ゆえに強いられる制約の上に立ちながら,現代という時代にかなった創造と取り組むという「地に足をつけたj制作の上にこそ,単なるE流的模倣に陥らない独自の表現が成り立っと考えたのではあるまいか。三上の画業は第二次大戦後の日本画の危機と密接に関わって成立しながらも,20世紀の社会や美術に通じる実に様々な問題を提起している。に由来するが,狭義のリアリズムではなく,現代を表現する限りにおいてはアブストラクトを含む広義のリアリズムを意味している。その後鈴木,八木が脱退(7 月に「走泥社jを結成),大野,下村らが新たに加わるなど一層「日本画」に純化していくかたちで、翌年パンリアル美術協会と改称し再出発する。詳細は不動茂弥『彼者誰時の肖像一一パンリアル美術協会結成への胎動.I1988年,私家版を参照されたい。150
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