⑤ 大阪舎利尊勝寺の章駄天立像には,「人皇五十八代光孝天皇六世後胤大仏師御職仲遠によって造像されたと伝えられるが,元禄十七年(1704)造立の本山高福寺慈光堂観音立像の仏師藤村忠円との関係はどう考察すべきか。③ 黄葉仏像様式の熊本福元寺釈迦如来坐像は,延宝九年(1681)京仏師北尾内蔵丞によって造像されたという銘文を遺しているが,彼の作品が同宗派の他寺にもあるところから康祐との関係が注目される。④愛媛雲門寺釈迦如来坐像には「文明六年正月吉日仏師康永法眼作」という銘文が遣されていることに注目したい。本寺の由緒によると,南氏の菩提寺として中世に最も栄えたという。南氏とは,河野通有の弟の通泰が興したもので横山城主として河野氏の有力な一門であり,横山城は建武年間南氏二代通武が築いた要塞であった。そして,この城下に本寺があり,通武によって七堂伽藍が建立され,海翁が開山として名を連ねる。この時,臨済宗建長寺末であったものが南氏の衰微と共に荒廃し,天和三年(1683)古鏡道明禅師が中興一世となり,黄葉山寓福寺の末となって再興したという。すなわち,本像は黄葉宗へ改宗する以前から同寺の本尊として安置されていたのである。銘文から,『本朝大仏師正統系図井末流.I(通称『仏師系図』)に記載される七条仏所仏師十七代康永がその人と考えられる。彼は,寛正二年(1461)六月二十九日,東寺仏師職を補任され,大夫法眼を名乗っており,本像は彼が三十歳の造像ということになる。従来,彼の造像事例の確認がほとんどなかったため,本像は仏像彫刻史及ぴ仏師系譜に新たな一石を投じることになるであろう。さらに,康永は文明十六年(1484)にて没しているが,その生没年齢が判明していなかった。ただ,本像銘文及び『仏師系図』から出生は文安元年(1444)で,四十歳にて没したという判断が可能となった。因みに,康永自身,直接的に黄葉仏像様式と一線を画しているが,七条仏師の系譜と黄葉宗を考察する時,重要な一人である。元祖定朝法印正統三十五世七係法眼左京作之」の銘文がある。『仏師系図Jの出生が享保十八年(1733),そして,寛政五年(1793)六十歳で没した七条大仏師左京法眼康伝であろう。七条仏所二十九代康音の子で,宝暦八年(1758)に法橋位,明和八年(1771)法眼位に叙されている。『京羽二重』延享二年(1745)本,明和五年(1768)本には,共通して彼が京二条通寺町東入ル町に住していたことを明記する。二十七代康伝及び二十八代康伝に比して,この三十代康伝の製作による造像事例が少なかった-6←
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