「旗母育仏図巻」(ボストン美術館)などの道釈人物画,「龍舟競i度図巻」(台北故宮博物院)などの界画があげられる。本画冊はこれらとは一見して結び付かない。それでは,この画家(工房・集団)は一体どういう系統に属していたのだろうか?先ず元時代李郭派山水のみならず,南宋時代の院体画や職業画工による道釈人物画との繋がりも顕著なことが注目される。こうした多様性が窺える類例として,版画ながら,長春真人正処機(1148〜1227)の画伝『長春大宗師玄風慶会図説文』挿絵(天理図書館)が挙げられる(注9)。至元11年(1274)杭州で刊行されたのを大徳9年(1305)大都長春宮の道士,路道通が重刊したもので,劉伯柴が原画を描き,許宗儒・宗君が模画したという。版画であるため表現において比較し難い所も間々あるが,16葉ある画面は画面構成,人物表現,樹木・雲煙の形態など,多くの共通点が指摘できる。特に侍者たちの姿は顔貌表現・姿勢など同様のものを容易に見出せる。又,「唐僧取経図冊jに見られるような複雑な要素の広がりも,それほどでないにしても見出せることは確かである。本画冊の本来の形式についても,『長春大宗師玄風慶会図説文』挿絵のように2図でl画面のような構成を採っていたものを含む可能性もあるであろ「唐僧取経図冊」は,(伝)南宋・李嵩「歳朝図」(台北故宮博物院)・『長春大宗師玄風慶会図説文』挿絵(天理図書館)などに認められるような伝統を受け継ぎ,同時代の李郭派をより積極的に学んだ南人の工房において制作されたと考えられよう。玄英三裁をめぐる画像において本画冊中に認められるようなナラテイヴな要素が早い段階で日本に受容されていたことは,鎌倉時代の「玄英三蔵絵巻」(藤田美術館)の成立によっても明らかである。この他に,画軸でも数例確認することができる。画面中央に玄英三蔵と深沙大将を配した「玄英三蔵十六善神図」は,現在,奈良・達磨寺本,奈良・南明寺本,京都・個人蔵本が確認されており,この図様の成立は鎌倉時代に遡り得ると考えられる(注10)。笈を背負った三戴は「玄英三蔵像」(東京国立博物館)と共通する,イコン化した図像に拠っているのに対して,南明寺,京都・個人蔵の両本にはその左下方には岩に身を隠す邪鬼が描かれており,ナラテイヴな要素が混入したものと解されよう。又,元・張伯供の伝称を有する「玄英三蔵図」(薬師寺)は,侍者を伴い白馬に乗った唐憎の姿で描かれ,上方に描かれた李郭派風の枯木が描き加えられるなど,本画冊との類似が指摘でき,経典を持ち帰る場面は丁度本画冊の欠落つ。-159-
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