鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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⑬ 工ルトマン・フンメルの芸術における遠近法の役割について研究者:東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了尾関1. 1. 1 一点透視図法の時代「高貴な単純と静かなる偉大jが理想、美とされた新古典主義美術の時代,一点透視図法を用いた簡素な構図の歴史画が数多く制作されたことは,美術史の基礎的知識に属するものである。フンメルもまた,18世紀末のローマに遊び,カルステンスやフェルノウ(注1)と親交を結んだドイツ古典主義の徒として,画業の初期には時代に制約された様式の歴史画を数多く製作している。しかしながら,ドイツへの帰国以来8年間,フンメルの歴史画家としての地歩は確立したとはいいがたく,『ルター札讃j(1806 年)以外に歴史画の分野で見るべき作品はうまれていない(注2)。に終止符をうち,新たな制作活動の地平を聞く契機となった。以降フンメルは約40年間にわたり,アカデミーの教授として,西欧人文主義の生んだ絵画技法である遠近法と対峠しつづけ,その普及と守護を司ることになる。フンメルがプロイセン美術界において頭角をあらわす機会は,アカデミー就任後ほどなくして訪れた。1810年の王妃ルイーゼの霊廟建設計画である。ハインリヒ・ゲンツとカール・フリードリッヒ・シンケルが技怖を競ったこのプロジェクトに,フンメルがどの程度関与していたのかは完全に解明されてはいない。が,ゲンツが設計したとされる霊廟の内部空間が,全てフンメルの手によって視覚化されていることから(注3),既存の設計案に基づいて建築物のイメージを具現することがフンメルの任であったと推定される。シンケルやゲンツといった優れた建築家との共同作業が,画家フンメルのその後の創作活動に影響を与えたであろうことは想像に難くない。霊廟の内部習作〔図l〕にみられる,一点透視図法で構成された完全に左右対称の絵画空間,建築モティーフによって三分割された画面構成は,その後約10年間,フンメルの絵画作品の基本的構成を支配するようになる。ベルリン画壇におけるフンメルの地位を不動のものにした『園亭の奏楽』〔図2〕は,この油彩画に想を得たE.T.A.ホフマンの小説「フェルマーテ」に倣い,現在は『フェルマーテ(延音記号)jの通称で呼ぴ習わされている。ホフマンの筆は,「拍子をとり損なった指揮者jが「シニョーラの,締めくくりの長いトリル(すなわちフェルマー1809年のフンメルのベルリン美術アカデミーへの招聴は,その長きに及んだ低迷期幸-163-

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