ため,本像が近世末期の黄葉仏像様式を考察する場合の基準となろう。⑤ 滋賀胎蔵寺には,大日如来坐像と薬師如来坐像二躯の秀作がある。大日如来像には「寛文十一年(1671)九月京都大仏師法橋康祐作」,薬師如来像には「寛文十一年(1671)九月京都大仏師柏木甚大夫作」とそれぞれ墨書銘がある。法橋康祐は,二十六代康祐であるが,これは「寛文拾年(1670)山城州洛陽康祐彫刻」と銘文を遣す福岡福厳寺の章駄天立像に次ぐ彼の造像例としては最も早い時代のものであり,彼の造立するその後の黄葉仏像様式の変遷を知る上でも貴重で、ある。柏木甚大夫については,現在知られている大仏師柏木康意正則がその人であろう。彼は,康祐と同時期・同仏所で活躍した人として著名である。貞享四年(1687)に滋賀金剛輪寺の四天王像(現存)の修理を担当しており彼の居住地名が七条分派仏師の仏所に使用されたという考えもある。⑦滋賀永明寺本尊の釈迦三尊像は康倫の作である。「京師大仏工法橋友学」と記し,事保六年(1721)に造像された。同寺の聖観音坐像もまた彼の作であるが,彼の造像活動の範囲がかなり広いことに注目したい。また,本像は彼の五十七歳の作であるところから活動期間について明確な制限をしていないものの本像が七条仏師の分派及び友学派の継承問題に新たな課題を付加されたことになり,今後の仏師研究に大きな提言がなされることを予感させる。③ 東京弘福寺本尊釈迦知来坐像は,黄葉仏像様式の他方の代表者である元慶松雲の作であるが,延宝五年(1677)造立の同じ豪徳寺の三世仏や同年大阪光明院釈迦三尊像,元禄四年(1691)から同八年(1695)にかけて造像された五百羅漢寺釈迦如来坐像始め,同十年(1697)宮城大年寺釈迦三尊像等を比較することにより,康祐と彼の像容の差異が明確になってくる筈である。①東京洞雲寺の釈迦三尊像は唐仏師音喚作とされているが脇待の迦葉尊者立像の納入物には「七条大宮方池大仏師安達左京京極通下御口町丙延宝四年(1676)辰六月吉日」,阿難尊者立像銘文には「[][ 小石川惇通院門前」と記され,寺伝では中尊と迦葉尊者立像は一対,阿難尊者立像は別作とされてきたようである。像容的にそれぞれ黄葉仏像様式と一棋を画するようにも考えられ,今後の調査でどう判断をすべきか結論を出さねばならない。⑮ 山形仏心寺の釈迦如来坐像は,黄緊仏像彫刻の中でもその法量は圧巻である。既に,充分な調査がなされているが比較対象を同じ像容の東京五百羅漢寺拍華釈迦如]殿大仏師黒川宗清作之-7
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