11)。その成果が初めて作品として結実したのは,1816年の『礼拝堂』〔図8〕である。主義美術や,1816年のオランダ旅行で接した17世紀のオランダ美術が影響していよう一一一フンメルは聞の中の光の表現を積極的に画題として取り上げるようになる(注ボヘミア山中の礼拝堂に集い,聖像に祈りを捧げる人々。月夜にさまよう巡礼者。これら典型的にロマン主義的な画題とは裏腹に,その構想、は,完全に科学的な関心に裏付けられたものであった。それは「月と蝋燭の光を光学の法則に則って構成し,それらが対象におよぼす効果を表現することこそが,作品の意図するところである」という,画家自身の言葉によっても裏付けることができる(注12)。画面左に見える月が,風景全体を青白い光で包み,画面右側を占める礼拝堂から洩れる燭台の灯が前景の人物群を樫色の光の中に照らし出す。二つの光は,互いの効果を損なわぬよう建築物によって隔てられている。これら異なる光の反射効果を捉えることも,画家は怠っていない。月は川面に,蝋燭は聖像画の表面に,再度その光を映し出しているのである。各々の光源から拡散する光線は,透視図法の消線をなぞりつつ,その影を地表に落としている。消点に光源を重ね合わせ,画面に統一感をもたせる手法は,フンメルがこの時期に好んで、用いた手法である。『礼拝堂』の翌年には,フンメルは『最後の晩餐』を制作し,更に2年後に『チェスの試合』を発表した。両作品とも,様々な光の効果を夜の閣の中に表現しているという点で,『礼拝堂』の延長上にあるものとみなされる。理性の時代である18世紀の終駕とともに,「夜」は反理性的なものの符牒として,広く芸術,文学の主題として取り上げられるようになる(注13)。しかしながら,古典主義美術の洗礼を受けたフンメルの画業における「夜Jは,極めてロマン主義的な表現を与えられているものの,その影響関係からのみ論じるきることはできない。フンメル作品における「夜」の役割を解明するには,フンメルの光に対する理解を一一それがいかなる独創性をも含まぬものであったにせよ一一考慮する必要がある。なぜなら,光と聞は表裏一体の現象であり,陰影表現は光の性質を知ることによって初めて成立するからである。その著書で,フンメルは光の性質を以下のように記述する。「光とは何か,その本質とはなんであるのか。以上の問いに対する正確な答えを我々は知らない。…(中略)…全ての天体が移動する空間を満たし,障害物がなければ無限に拡散し続けるという光の効果を,我々はごく部分的に知るのみである…(中略)…ある一点から発する光線は,あらゆる方向へ直糠を描きつつ,無限へと拡散する。-169-
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