鹿島美術研究 年報第17号別冊(2000)
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円iが,地上に長い影をおとす。柱や欄干などの障害物によって造り出されるこれら影は,太さの様々な縞模様となって画面を斜めに横切り,線遠近法の消線と交差する。太陽光線が作り出す影は平行とされているが,線遠近法の法則にしたがってその平行線を素描するならば,画面の奥行きに従ってその間隔は狭まり,いつか一点で落ち合う。それは線遠近法と同様,透視図法の基礎のもとに作図可能なものであり,組遠近法の消点の他に,もう一つの消点を絵画空間に導入する契機となる。フンメルは『イタリアの墓地Jにおいて,この太陽光線の特質を余すところなく利用し,画面に二つの消点を設定することによって,一点透視図法が生み出す統一感と,消点の複数化による多様性を同時に実現させたのである。結語一一フンメルと同時代美術一一以上,フンメル作品における線遠近法の使用法と明暗表現の様式的発展を,その作品に基づいて分析してきた。その画業に通底するのは,絵画芸術を数学的な課題と看倣し,対象に幾何学的規則性を求め,線遠近法が到達しうる限りの技巧を尽くす姿勢である。それは,フンメルを形容する上でしばしば用いられる言葉「写実主義」とは関わりのない資質に由来するものなのであった。フンメルの幾何学的平面構成の才はすでにイタリア時代の初期作品に認めることができるが,絵画が建築との密接なかかわりのもとに発達したベルリンの地において,その本領を余すところなく発揮する場を見い出す。更に美術アカデミーへの招聴が,フンメルのその後の画業を決定したであろうことは,ほほ間違いない。当時,ベルリンの美術アカデミーは,ダニエル・ホドヴイエツキやゴットフリート・シヤードウら,ベルリン古典主義美術の礎を築いた美術家の指導のもとに,素描を重視する美術教育機関としての体裁を改めたばかりであり,新生アカデミーの遠近法教授というフンメルの地位は,ベルリンの古典主義第一世代が築き上げた教育体系の守護者となることを意味した。表面的には,時代の趨勢はフンメルに与していた。ベルリンの絵画芸術を支えた社会階層一一国王をはじめとする貴族や愛国的な新興市民一ーは,興りつつある首都の景観を題材とする建築画を好んだ。フンメルの赴任以降,遠近法の講座を受講する学生は急激に増加し,その弟子からはヴイルヘルム・ブリュッケや,カール・ハーセンプルークなど,ベルリンを代表する建築画家が輩出する。

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