注( 1) Karl Ludwig Fernow (1763 1808)画家,美学者。1793年より11年間に及んだロー(2) もっとも,この時期の造型芸術における生産性の低さは,フンメルに限ったこと(3) フンメルによる霊廟の習作は,現在内部空間が全6枚(シャルロッテンブルク宮(4) E.T. A. Hoffmann, Die Fermate. 1815 建築面は,肖像画と同様,写実的であることを旨とする分野である。本来ならば写実主義者ではないフンメルが支持をみいだしたのも,皮肉なことに建築画の流行の文脈においてであった。だが現実には,フンメル自身の作品に実在する建築物が描かれることは殆ど皆無であったといってよい。フンメルの関心と時代の趣味とのずれを証明するかのごとく,建築画の繁栄が頂点に達する一方で,フンメル自身の画業は次第にその支持を失っていく。ルネッサンス期に著名な美術家によって発明された線遠近法は,世界を人間の視点から捉え,その主観的視界を二次元の平面に固定する手段であった。フンメルの遠近法は,ルネッサンスにおける遠近法のあり方とは寧ろ逆に,人間の主観的世界を数学的法則に従属させる手段となっている。世紀転換期,「理性の信奉者」であったフンメルは,時代の趨勢に屈せず自らの理念を貫いた結果,半世紀の聞に「人間性の疎外者Jとなっていた。両世紀の聞に生じた亀裂は,それほど深いものだったのである。マ滞在期,当地のドイツ人芸術家サークルの中心的存在となる。ではなかった。ナポレオンの侵攻(1806年)は,ベルリンの政治経済のみならず,文化芸術にも深刻な影を落とした。1808年のアカデミ一美術展覧会の参加作品は,1806年の3分の2に減少,かっその一部は前回出品されたものと重複していた。一方で愛国主義の高揚が新しい絵画芸術の流れをっくり出したが,その成果が出始めるのは1812年以降のことである。H巴lmutBりrsch-Supan,Die Kataloge der Berliner Akademie-Ausstellungen 1786 -1850, Berlin 1971, Registerband, p. 13 殿,ベルリン市立博物館,ベルリン版画素描館),外観図が全3枚(ベルリン版画素描館,サン・スーシ一宮,パリ個人蔵)確認されている。シンケルとゲンツの役割分担の程度は明らかではない。シンケルが外部空間,ゲンツが内部空間の設計を受け持つたというのが,現在の定説のようである。172
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